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アジアでは、第一次世界大戦のせいでヨーロッパからの輸入が途絶(とだ)えてしまったんだ。これをカバーしたのが日本。そのおかげで、日本の繊維(せんい)産業をはじめ重工業(じゅうこうぎょう)は盛んになって、輸出が増えたため色々な商社が数多く誕生したんだ。ただ、その時代は長くは続かず、そのあとの世界恐慌(きょうこう)や第二次世界大戦のときはとても苦労したんだよ。

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大正後期~昭和初期

恐慌や戦争で商社もとても苦労した

第一次世界大戦が終わってしばらくすると、ヨーロッパの生産が回復しだしたため、日本からの輸出が落ちはじめた。株価(かぶか)も暴落(ぼうらく)して景気が悪くなり、モノが売れなくなった。多くの企業で事業拡大のための借金(しゃっきん)が膨れ上がっていたので、これが大きな負担となって返済に苦しんだんだ。こうした出来事は、「1920年恐慌」と呼ばれている。その影響で、第一次世界大戦の時に誕生した多くの商社が破たんしたんだ。さらに、1923年に関東大震災(しんさい)が起こり、日本経済はどんどん不況(ふきょう)になっていった。

時代が昭和になってすぐに、日本は再び大きな試練に襲(おそ)われた。それが、1927年に起こった「昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)」だ。銀行への「預金の取り付け騒(さわ)ぎ」が起きて日本中がパニックになったんだ。国が予算を減らした緊縮(きんしゅく)財政(ざいせい)策による物価の下落(げらく)や、関東大震災で発生した不良債権(さいけん)などから生じた金融不安が主な原因と言われているよ。

1930年代に入ると徐々(じょじょ)に産業が回復しだして、商社もアジアとの繊維(せんい)貿易に力を入れたり、機械や鉱物(こうぶつ)資源、セメントなどを取り扱(あつ)かったりして、日本の重工業化の発展を支(ささ)えたんだ。一方、この時期、日本は国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)し、徐々に国際的に孤立するようになって行った。そして1941年、太平洋戦争に突入(とつにゅう)した。商社もこの世界大戦に巻き込まれてしまうんだ。戦時体制下において商社のビジネス環境は大きく変わった。自由な活動は徐々に制限され、日本の「国策」に協力する以外に道はなかったんだ。

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詳しい解説 めざましい活躍をする商社 1918~1926年ごろ

社会のできごと

1919年
ベルサイユ講和条約
第一次世界大戦の戦後処理(しょり)のため連合国とドイツとの間で結ばれた講和条約。パリのベルサイユ宮殿(きゅうでん)で調印(ちょういん)されたことからこうよばれている
1920年
1920年恐慌(きょうこう)
第一次世界大戦中、アメリカや日本では、戦場であるヨーロッパに製品を供給することで好景気となっていた。戦争が終わりヨーロッパの産業が復興(ふっこう)して戦争前の供給体制に戻ったあともアメリカや日本からの供給が調整されず、さまざまなものが過剰(かじょう)となり一気に景気は低迷(ていめい)して不況(ふきょう)に陥(おちい)った
1920年
国際連盟(れんめい)ができる
アメリカ大統領ウィルソンの呼びかけによって、世界平和を保ち、国際協力をすすめることを目的につくられた。第二次世界大戦が始まると事実上活動停止となり、国際連合が成立した後の1946年に解散
1922年
ソビエト社会主義共和国連邦(れんぽう=ソ連)が成立
建国は1917年だが、1922年に15の共和国からなる多民族国家として正式に成立した。アメリカとならぶ世界の二大大国であったが、1991年12月に解体
1923年
関東大震災
9月1日の昼に、関東をおそったマグニチュード7.9の大地震による災害。南関東から東海地方にわたる広い地域で被害が発生し、死者・行方不明者は10万人を超えた。人や建物の被害もきわめて大きかったが、その混乱(こんらん)のさなかにいろいろな事件が起きた

恐慌と震災に日本経済も商社も大きな打撃をうけた

第一次世界大戦が終わった1918年以降も、しばらくはヨーロッパの復興(ふっこう)需要で日本の輸出は引き続き盛(さか)んに行われ、たくさんのお金が事業(じぎょう)に投資(とうし)されていた。商社も、戦中(せんちゅう)に引き続き外国との貿易を拡大していったんだ。

一方、この期間の商社ブームで新しく生まれた商社の中には、無理をして不慣れな取り扱い商品を増やして事業を拡大するところもあった。

ところが、1920年に入ると株価(かぶか)が暴落(ぼうらく)し、経済が混乱(こんらん)しはじめたんだ。さらに、ヨーロッパの生産力が回復(かいふく)しだしたために、日本からのヨーロッパへの輸出は減りはじめた。戦争後も好況(こうきょう)が続くと思って、事業拡大を進め大きな借金(しゃっきん)をしていた企業は、商品が売れなくなって大きな負債(ふさい)を抱(かか)えることになったんだ。これが、「1920年恐慌(きょうこう)」のはじまりだ。

商社も同様に大きな影響を受けた。多くの商社が経営危機になって破たんしたんだ。破たんしなかった商社でも、大幅なリストラや事業を縮小(しゅくしょう)するなどしてなんとか生き残ったんだ。他の商社と合併(がっぺい)して生き残った商社もあったんだよ。それくらい大変だったんだ。さらに、1923年には、マグネチュード7.9の大正関東地震が起きて、多くの人命が失われ、産業も大打撃(だいだげき)を受けた。この関東大震災の被害が原因で破たんした商社もあった。この2つの大きな危機によって、日本経済は非常に苦しい時代に入っていったんだ。

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詳しい解説 戦争にほんろうされた商社 1926~1945年ごろ

社会のできごと

1927年
昭和金融恐慌(きんゆうきょうこう)
第一次世界大戦後の不況に加えて、関東大震災のため支払いができなくなっていた「震災手形(てがた)」が不良債権(さいけん)となっていたことなどから、金融不安が生じていた。そこに大蔵(おおくら)大臣が実際には破たんしていなかった銀行を、国会で破たんしたと説明したため、不安が一気に表面化し、「取り付け騒(さわ)ぎ」が起きて、いくつもの銀行・企業(きぎょう)が休業に追い込まれた
1929年
ニューヨークから世界恐慌が始まる
10月24日木曜日、アメリカのウォール街にあるニューヨーク証券(しょうけん)取引所で、株価が大幅に値下がりした。アメリカではこの日を「暗黒(あんこく)の木曜日」とよぶ。多くの銀行が閉鎖(へいさ)され、企業も数多く倒産した。その影響(えいきょう)はヨーロッパをはじめ世界に広がり、世界恐慌となった
1933年
日本、国際連盟から脱退(だったい)
国際連盟総会で、満州における中国の統治(とうち)権を認め、日本軍の引き上げを求める報告書が採択(さいたく)されたことから、日本は連盟脱退を通告した(正式な脱退は2年後の1935年)
1933年
アメリカでニューディール政策(せいさく)実施(じっし)
1929年に始まった世界恐慌対策として、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が行った政策を、まとめてニューディール政策という。失業者の雇用(こよう)、産業の統制(とうせい)、労働者の保護などを目的に制定された制度や法律は膨大(ぼうだい)な数に上る
1938年
国家総動員法公布
戦争に備えて総力戦体制を取るため、国の経済(けいざい)や暮らしを政府が統制できるよう法律で制定した。第一次近衛(このえ)内閣によって制定、公布され、1946年1月まで続いた
1939~1945年
第二次世界大戦
ドイツがポーランドに攻め込んだことをきっかけに、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と戦火が広がり、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営(すうじくこくじんえい)と、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ、中国などの連合国陣営との間での全世界的規模の戦争となった
1941~1945年
太平洋戦争
12月8日、日本軍がハワイの真珠湾(しんじゅわん)を攻撃しアメリカと開戦、太平洋戦争が始まった。主に東南アジアなど太平洋地域が戦場になり、日本はアメリカ、イギリス、オランダ、中国と戦った。1945年8月15日に日本が降伏(こうふく)して戦争は終わった
1941~1945年
6大都市で米穀配給制度実施
戦時(せんじ)下で米不足が心配され、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸で米が配給(はいきゅう)制になった。配給制とは、物資(ぶっし)を配る方法や量を国が決め、行う制度

商社も倒産する大不況が来た

時代は昭和に入っても、日本経済は低迷(ていめい)していた。そのため、経営状態(じょうたい)が悪い銀行が多くなり、人びとは金融(きんゆう)に不安を感じていたんだよ。そして1927年、「昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)」が起きた。人びとが自分の預金を引き出すため、銀行に殺到(さっとう)したんだ。いわゆる、「預金の取りつけ騒(さわ)ぎ」だね。お金が回らなくなったため、銀行は休業(きゅうぎょう)に追い込まれ、商社の倒産(とうさん)も起きて、経済はとても混乱(こんらん)したんだ。さらに、1929年には、アメリカの金融の中心地、ウォール街のニューヨーク証券取引所で株価(かぶか)が大暴落(だいぼうらく)したことをきっかけに、世界的な規模で金融恐慌が起きて世界恐慌が始まった。世界全体が、大不況(だいふきょう)になってしまったんだよ。

当然、商社も大きな影響を受けた。商社は、第一次世界大戦の頃から外国同士の貿易を仲介(ちゅうかい)する外国間貿易に力を入れていたんだ。でも、世界大恐慌や激しい国際競争によって活動を縮小(しゅくしょう)せざるを得なくなった。そこで、商社はこのピンチを乗りきるために、日本国内での取引に力を入れたんだ。家庭用の石炭、工場用の扇風機(せんぷうき)やモーターなど電機、それに鶏卵(けいらん)やニワトリのエサなどを取り扱ったんだ。ただ、商社のこうした活動は、地方の農業や工業の発展にも貢献した一方で、昔から事業をしていた中小の問屋(とんや)などの企業にとっては、商売を奪われるかたちになってしまった。そのため、商社に対する反発も一部では起こったんだ。

商社も一緒になって繊維を日本の代表的な産業に育てた

ところで、昭和初期の経済状況は大変だったけれど、日本の綿業(めんぎょう)が栄えた時期でもあったんだ。この時代の綿工業の発展は、綿製品を作る紡績(ぼうせき)メーカーだけでは成しえなかった。商社が原料となる安価で良質な綿花(めんか)や外国の近代的紡績機械を輸入し、さらに生産された綿製品を外国に販売、輸出して貢献(こうけん)したことが大きかった。商社は、中国、アメリカ、インド、ときには中東(ちゅうとう)や南米(なんべい)、アフリカの奥地(おくち)にまで入って行って、綿花を買って輸入したんだ。そして、生産された綿糸布を世界各地に売り込み輸出したんだ。こうした努力が実(みの)って、綿産業は大きく発展した。また、商社は羊毛を輸入して毛織物(けおりもの)産業の成長にも貢献した。そのほかにも絹(きぬ)、化学繊維(かがくせんい)などの繊維産業が盛(さか)んになり、この時期の日本の代表的な産業となった。それは、紡績(ぼうせき)会社とともに商社ががんばったからなんだ。

大人も知らない商社のひみつ

なぜ「安い綿花は大阪で買え」と言われたか?

昭和のはじめ、日本の綿業(めんぎょう)は栄えており、当時「安い綿花は大阪で買え」と言われていました。なぜ大阪なのでしょうか。その理由は綿花商と呼ばれる、綿花を輸入する商社が大阪など関西地方に数多くあったからです。大阪の綿花は世界のどこよりも、さらに綿花の産地よりも安い価格で取り引きされていました。商社は世界の綿作地の状況をくわしく調査して、いちばん安くて質の良い綿花を買い付けていたのです。商社マンたちはどんな不便なところでも、どんな気候の悪いところでも出かけて買い付けを行っていました。こうした努力に支えられて綿業は日本の代表的な産業に成長したのです。

経済も貿易も国が統制し、商社は自由を奪われた

1930年代になると日本の政治・経済に変化が現(あらわ)れはじめた。陸海空軍の軍部(ぐんぶ)が、内政(ないせい)や外交(がいこう)に介入(かいにゅう)してきたんだ。その影響から軍需(ぐんじゅ)優先(ゆうせん)の政策がとられるようになったんだ。そのため、企業は軍需拡大を期待して、輸入が大幅に増えたんだけれど、輸出はあまり伸びず、外国への支払いばかりが多くなってしまって、貿易収支(しゅうし)は大幅に赤字になってしまったんだ。だから、輸入を減らす制限をしなくてはいけなくなった。そこで国は、貿易活動を規制するために、輸入為替(かわせ)管理令(かんりれい)*1、輸出入等臨時(りんじ)措置法(そちほう)*2という命令を出して、貿易統制(とうせい)を行った。輸出入量や輸入品を原料とする製品の消費(しょうひ)などを国が制限できるようにしたんだよ。

そのため、商社は積極的に重化学工業へ投資を行ったり、中国や東南アジアへ進出していた。また、繊維(せんい)や鉄鋼(てっこう)を専門に扱(あつ)う商社も、貿易統制のために自由に活動することができなくなったことから、中国など海外で事業を行うようになった。この時期に最も注目された地域が満州だ。新しい経済圏(けいざいけん)として日本が重視(じゅうし)していたんだ。満州との貿易が増えたおかげで、それまで不振(ふしん)だった鉄鋼、造船(ぞうせん)も回復し、景気が良くなった。さらに、重化学工業も発展しはじめた。そこで商社は、これまでの繊維や石炭・石油に加えて、機械、鉱物(こうぶつ)資源、肥料(ひりょう)も取り扱(あつか)うようになっていった。これで日本経済はようやく回復したかにみえたけれども、戦争の影が、すでに日本を覆(おお)い始めていたんだ。

*1 輸入貿易管理令
1949年(昭和24年)に公布された輸入管理に関する「外国為替及び外国貿易法」の施工(せこう)のための政令の一つで、輸入承認制が定められた。貨物を輸入するには通産大臣の承認が必要で、また、輸入割当制が定められ、通産大臣から輸入割当てを受けた貨物のみ輸入が可能であった。

*2 輸出入品等臨時措置法
1937年(昭和12)に施行された戦時における貿易・物資統制の基本法。当初、国際収支の均衡を図るために「貿易および関係産業調整法」を定めたが、戦争が拡大したため、規制対象を広げた法律が制定された。本法は政府が必要と認めれば、物品を指定して輸出入の制限・禁止を命じ、輸出入に関連する物品の製造、配給、譲渡(じょうと)、使用または消費について命令する権限を商工大臣に付与(ふよ)した。

戦争に突入、商社も国の命令を受けて

日本は世界恐慌の不況からようやく抜け出し、景気が戻りつつあった。でも国際的には孤立(こりつ)し始めていたんだ。どうしてだと思う?日本が中国など海外へ進出することに、欧米を中心に外国が強く反発(はんぱつ)したからだ。そのため、日本は1933年に国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)した。1937年には、中国との戦争が始まってしまった。国内は戦時体制(せんじたいせい)になって、1938年には「国家総動員(そうどういん)法」が公布(こうふ)された。暮らしも企業の活動も、すべて戦争の準備のために優先(ゆうせん)されることになったんだ。

そして1939年には、ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス、フランスがドイツに宣戦(せんせん)布告(ふこく)し、第二次世界大戦がはじまった。これを境(さかい)に日本はアメリカ、ヨーロッパとの貿易がほとんどできなくなってしまった。そして、厳しい状況はさらに続いた。アメリカ、イギリス、オランダが対日資産(しさん)を凍結(とうけつ)して、日本への石油の輸出を禁止した。日本は当時石油の8割をアメリカから輸入していたから、その影響は深刻だ。国は貿易についても統制(とうせい)を強め、交易(こうえき)営団(えいだん)という政府代行(だいこう)機関(きかん)を設立(せつりつ)した。この機関が物資(ぶっし)の輸出入価格を決めたり、物資の集荷(しゅうか)や配給(はいきゅう)を行うことになったんだよ。商社は、この交易営団の指示や命令を受けて活動するしかなかった。自由に貿易することができなくなったんだ。

1941年、日本は真珠(しんじゅ)湾を攻撃して、アメリカとの戦いに突入(とつにゅう)した。太平洋戦争が始まったんだ。だから商社は、アメリカやヨーロッパなど対戦(たいせん)国にあった支店や出張所を閉鎖(へいさ)せざるを得なかった。なかには、現地の政府に支店などの資産(しさん)を取り上げられたところもあった。自由に貿易ができなくなった商社の多くは、政府や軍に命じられて、中国、満州との取り引きや、東南アジアで活動するしかなかった。満州で農産物を集めて日本などに供給(きょうきゅう)したり、ビルマ(今のミャンマー)やフィリピンに駐在(ちゅうざい)所を置いて、綿花やゴムの栽培を行ったり、山林を開発したりと、商社本来(ほんらい)の仕事ではないことも行った。この状況は戦争が終わるまで続いた。明治時代から日本の近代化とともに歩んできた商社は、戦争にほんろうされ事業を発展させることはできなかったんだ。当時商社で働いた人々は悔しかったかもしれないね。

秀才君のためのミニ知識

戦時下、商社は南方受命事業に

太平洋戦争が行われている間、商社は自由に貿易をすることができませんでした。しかし、軍の命令によって南方で受命(じゅめい)事業を行っていました。南方とは日本軍が占領(せんりょう)したフィリピン、マレー半島、シンガポールなどの東南アジア地域で、石油や鉄、木材、ゴムや麻などの資源が豊富でした。経済封鎖(ふうさ)や戦争などで物資(ぶっし)が不足している日本にとって、南方は重要な地域だったのです。ここで商社は単独(たんどく)、あるいは民間企業と共同で、資源や原材料の買い付けだけでなく、農園経営や食品加工まで行って物資を集め、日本へ供給していました。商社にとって本当に大変で辛い時期でした。

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