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第二次大戦が終わって、日本は奇跡的(きせきてき)な経済成長を遂(と)げることになる。…まさに激動の時代だ。産業は次第にエレクトロニクス中心へ。そんな中、商社も産業の発達とともに大きく変化していき、資源エネルギーや原料の輸入にも積極的に取り組んだ。そして優れた日本の製品を世界中に広めて我が国の経済発展のために大きな役割を果たしたんだ。

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昭和中期~昭和後期

戦後、経済は奇跡的な成長をとげ、商社の活躍がはじまった

戦後、国は、早く日本を復興(ふっこう)させるために、輸出をどんどんして外貨を稼ぐように産業界に働きかけた。商社も貿易ができるようになり、再び活躍(かつやく)の機会が訪(おとず)れたんだよ。ただ、戦後間もなくは、「財閥(ざいばつ)解体」という命令が出て、財閥系商社が解散(かいさん)させられたり、分割(ぶんかつ)させられた。1950年になると、朝鮮戦争が起こって特需(とくじゅ)で輸出が増えた。1954年ごろには、解散させられた財閥系商社の再統合のルールが取り除かれて再統合の動きが見られ、商社も先頭に立って復興を引っぱったんだ。その後、日本経済は奇跡的な回復をして、1970年代はじめまで高い成長が続いたんだ。これが「高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代」だ。おかげで、日本人の暮らしはとても豊かになった。今では当たり前のカラーテレビや、エアコン(当時はクーラー)、冷蔵庫が家庭に登場したのも、このころだったんだよ。商社は、こうしためざましい日本の経済発展に大きく貢献(こうけん)した。原材料(げんざいりょう)や資源(しげん)・エネルギーなどを安定的に供給(きょうきゅう)して重化学(じゅうかがく)工業を支えたんだ。さらに、日本の優れた製品を海外に売り込んだんだよ。それだけじゃない、今では珍しくないインスタントラーメンやインスタントコーヒーを世の中に広めたのも商社だったんだ。

冬の時代からバブル景気へ、大きく変わる商社の姿

1970年代に入ると、日本はドルショック、オイルショックという大きな出来事(できごと)の影響を受けてしまう。急にモノの値段が上がったり、商品が買い占められるなど、ちょっとしたパニックが起きた。これを境(さかい)に、高度成長の時代が終わってしまった。商社もその影響を受けて業績が下がり、物価の値上げの犯人にされたりと大変な思いをしたんだ。それでも時代の変化に合わせて、新しい事業行動ルールを作って、新たなチェレンジをした。1980年代に入ると日本の産業も大きく変わりはじめた。重化学(じゅうかがく)工業中心からエレクトロニクス中心の時代になったんだ。商社も将来を見すえてエレクトロニクス分野へ進出したり、海外進出する日本企業に投資(とうし)したりと事業の幅(はば)を拡げはじめた。やがてバブル景気がやってきて、ふたたび空前(くうぜん)の好景気(こうけいき)を迎えた。商社も他の企業と同じように株や不動産に投資(とうし)をしながら利益(りえき)を上げる一方、高級ブランドの輸入・販売を手がけるなど、これまでに見られなかった新しい事業を展開したんだ。

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詳しい解説 発展する日本を支え続けた商社 1945~1970年ごろ

社会のできごと

1945~1952年
財閥(ざいばつ)解散命令
太平洋戦争後、日本を占領(せんりょう)したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、経済の民主化を図るため、三井、三菱、住友、安田ほかの財閥(ざいばつ)の解散を命じた。それにより、多くの子会社、孫会社が分社(ぶんしゃ)化、分割(ぶんかつ)化された
1946年
日本国憲法公布
今の憲法で、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制としたことが、明治憲法との最大のちがい。さらに、基本的人権の尊重(そんちょう)、戦争の放棄(ほうき)と戦力の不保持という平和主義を定めた
1949年
単一為替(たんいつかわせ)レート 1ドル360円設定
当時の外国貿易は品目(ひんもく)ごとに別々にレートが設定されていたが、GHQ顧問のドッジが日本経済の安定と自立を目標に打ち出した経済安定9原則(ドッジ・ライン)に沿って、4月25日から1ドル=360円の単一為替レートが実施された。その後、1971年8月までの22年間にわたって、1ドル=360円のレートが維持(いじ)された
1950年~
朝鮮戦争による特需景気
戦争が起こると、アメリカ軍から日本の企業へ、いろいろな物資の発注(はっちゅう)が増えた。当初は、軍服(ぐんぷく)やテント、鋼管(こうかん)や針金(はりがね)など戦地で使う繊維(せんい)製品や鋼材が多かったが、後に飛行機や戦車の修理も行った。この期間、工業製品の生産が伸びて好景気をもたらした
1951年
平和条約(サンフランシスコ講和条約)調印
第二次世界大戦におけるアメリカをはじめとする連合国と日本との戦争状態を終わらせるため、両者の間で結ばれた平和条約。この条約により、連合国による占領は終わり、日本は主権を回復した
1951年
日米安全保障条約調印
日本及び極東の平和と安全の維持(維持)に寄与(きよ)することを目的にアメリカ軍の日本駐留(ちゅうりゅう)などを定めた条約。サンフランシスコ講和条約調印と同時に日米間で結ばれた
1952年
日本がIMF・IBRDに加盟
日本は、通貨の安定を担(にな)うIMF(国際通貨基金)、加盟国の復興援助を担うIBRD(国際復興開発銀行)という2つの国際的な金融機関に加盟した。これにより、日本は国際経済に加わることになった
1953年
輸出入取引法施行(しこう)
不公正な輸出を防止して、秩序(ちつじょ)ある輸出、輸入のもと、外国との貿易を行うための法律として制定された
1953年
朝鮮戦争休戦協定調印
1950年から続いた朝鮮戦争がこの協定によりひとまず終わり、南北朝鮮の事実上の新たな国境である軍事境界線(38度線)が定められた
1954~1973年
日本の高度経済成長期
戦後、日本ではエネルギーが石炭から石油へ、産業は軽工業から重化学工業中心となり、輸出も投資も拡大した。さらに所得倍増(ばいぞう)計画など国も積極的な取り組みを行った。そのため、1960年代は年10%以上という驚異(きょうい)的な経済成長率を達成(たっせい)した
1955年
日本、GATTに加盟
GATT(関税及び貿易に関する一般協定)は自由貿易の促進を目的とした国際協定で、1948年に発足したが、日本は加盟がみとめられなかった。GATT加盟は日本の輸出による経済発展の大きなきっかけとなった
1958年
1万円札発行
日本の最高額紙幣(しへい)として聖徳太子がえがかれた1万円紙幣が発行された。1000円紙幣の発行から8年後のことで、戦後の経済復興の証(あか)しともなった
1960年
貿易及び為替の自由化計画
1955年にGATTに加盟が認められた日本は、貿易を原動力に経済成長をするために、「貿易為替自由化大綱(たいこう)」を策定(さくてい)して貿易自由化を進めた
1963年
名神高速道路開通
7月16日に日本初の高速道路として栗東(りっとう)IC(インターチェンジ)-尼崎(あまがさき)IC間が開通した。その後、高速道路の整備が進み、貨物輸送の主力は従来の鉄道からトラックによる自動車輸送へと移っていった
1964年
東海道新幹線開通
東京オリンピックに合わせることを目指し、1959年に工事が始まり、開会直前の10月1日に開通した。当時の最高時速は210キロで、東京-新大阪間を4時間で結んだ
1964年
東京オリンピックが開かれる
アジアで最初に開かれたオリンピックで、94カ国が参加した。敗戦後の日本の復興を世界に印象づけた
1966年
中国文化大革命(ぶんかだいかくめい)起こる
毛沢東(もうたくとう)が主導して行われた大規模な思想・政治闘争(とうそう)。多くの指導者や知識人、さらには民衆までもが迫害(はくがい)・投獄(とうごく)・殺害され、その後の中国社会に深い傷(きず)を残した
1967年
ASEAN(東南アジア諸国連合)発足
東南アジアにおける経済・社会・政治・安全保障・文化に関する地域協力を目的にタイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国によってつくられた。本部はインドネシアのジャカルタ。現在の加盟国は10カ国
1968年
日本初の超高層(ちょうこうそう)ビル、霞が関(かすみがせき)ビル完成
4月に日本で初めて高さ100m以上となる霞が関ビルが完成。その後の超高層ビル時代の先がけとなった
1968年
日本のGNP、世界第2位に
高度経済成長を続けていた日本のGNP(国民総生産)は、この年50兆円を超え、アメリカに次ぐ世界第2位(共産圏(きょうさんけん)を除く)となった
1970年
大阪万国博覧会開催
正式名称は日本万国博覧会で、アジアで初めての国際博覧会となった。「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で開催され、76カ国と1政庁(ホンコン)が参加し、183日間で6400万人あまりの入場者数を記録した

戦後すぐ「財閥解体」命令によって商社の多くは分割・解散

1945年、日本はポツダム宣言(せんげん)を受諾(じゅだく)した。長く続いた戦争が終わったんだ。そして、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部:れんごうこくぐん・さいこうしれいかん・そうしれいぶ)が、日本を統治(とうち)した。新たな国づくりが始まったんだ。まずは外貨(がいか)を獲得(かくとく)して日本の経済を立て直すことが重要だよね。そこで貿易を積極的に行うということになった。ようやく商社の出番だ。ところが、貿易はGHQによって管理され、政府間(せいふかん)貿易としてはじまった。だから自由に商社が活動できるわけではなかったんだ。1945年に輸出入の政府責任機関として貿易庁(ぼうえきちょう)が創られ、その下に輸出入代行機関(ゆしゅつにゅうだいこうきかん)、貿易業者(ぎょうしゃ)が続いた。その後、政府によって貿易公団(こうだん)が創られて、輸出入代行機関に替わったけれど、戦後しばらく貿易は国のもとで行われていたんだ。

ところで、この時期に商社にとっても、とてもショックな出来事があったのを知っているかな?それは「財閥解体(ざいばつかいたい)」と言うんだ。財閥というのは、分かりやすく言うと家族や同族(どうぞく)で作られた親企業(おやきぎょう)を中心としたグループ企業体(きぎょうたい)のこと。当時、大手商社のほとんどが財閥の関連(かんれん)企業だったんだ。それで商社は、GHQから会社を分割(ぶんかつ)しなさいと命令されたんだ。GHQは、財閥が経済面から戦争を支援していたと考えていたから、財閥系の会社は商社を含めて分割、解散させられた。大手商社の中にはなんと200社以上に分割されたところもあったんだよ。

民間貿易が再開、朝鮮戦争の特需で商社も発展した

1949年になると民間輸出(みんかんゆしゅつ)が、翌年には民間輸入(みんかんゆにゅう)が再開された。ようやく商社が自由に貿易ができるようになって、海外にも支店を置けるようになった。さらに、1950年に朝鮮(ちょうせん)戦争が始まった。これが商社に大きなチャンスをもたらしたんだ。戦争による特需(とくじゅ)で、日本は好景気(こうけいき)にわいたんだ。主にアメリカ軍との取り引きによるもので、商社にとっても輸出入拡大(ゆしゅつにゅうかくだい)の追い風となった。特に繊維(せんい)専門の商社は大きく発展した。これらの商社は綿(めん)や絹(きぬ)など「糸へんの漢字」の品物を扱うので、糸へん商社と呼ばれたんだ。糸へん商社が伸びたのは繊維原料や食料、金属機械の輸入と繊維製品の輸出が増えたからなんだ。ただ、朝鮮戦争が終わると需要(じゅよう)が減って不況(ふきょう)が起こり、多くの企業が倒産(とうさん)した。糸へん商社も、生き残るために商社同士で合併(がっぺい)したり、繊維以外の品目(ひんもく)を取り扱ったりして専門商社から脱却(だっきゃく)しようとしたんだ。

また、1954年ごろから「財閥解体」で分割された商社が、再び一緒(いっしょ)になる動きも目立ってきていろいろな商社が生まれた。「財閥解体」の命令が緩和(かんわ)されたのがその理由だ。その一方、商社同士の競争などから、規模の大きくない、体力のない商社がたくさん倒産(とうさん)した。1954年には、なんと繊維専門商社105社が倒産したんだよ。それでも、こうした大変な時期を乗り越えた商社が、再び活躍(かつやく)する時代がやってくるんだ。

高度経済成長、商社は資源エネルギー輸入のために世界中で活躍

1950年代の半(なか)ばになると、日本の経済は急成長(きゅうせいちょう)しだした。「高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代」のはじまりだ。急成長を実現(じつげん)したのが、石油化学や造船(ぞうせん)、鉄鋼(てっこう)などの重化学(じゅうかがく)工業の発展(はってん)だ。この頃の日本は、海外から鉄鉱石(てっこうせき)や石炭(せきたん)、原油(げんゆ)などの原料を輸入し、それを加工、製品にして、海外や国内に販売してたんだ。1960年代に入ると、当時の政府は「所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)」を掲(かか)げた。国民が労働などで得た所得を10年で2倍にするという計画だ。これがきっかけとなって、製鉄(せいてつ)所やコンビナートが数多く作られ、ますます重工業は発展した。メーカーは、最新の設備(せつび)を取り入れて、技術革新(かくしん)に取り組んだ。たとえば、鉄鋼(てっこう)会社は、新しい高炉(こうろ)を建設し新製品を開発した。ナイロンやプラスチックを作る石油化学、合成(ごうせい)繊維(せんい)産業も大いに発展(はってん)した。石油産業も成長した。

でも、不思議に思わないかい?資源(しげん)エネルギーの少ない日本で、どうやってこんなに重工業が大きく発展したのだろう。実は、商社ががんばったからなんだ。商社は、世界中を駆け回って、原油や鉄鉱石などの原料や資源・エネルギーを安定的に確保、輸入できるように取り組んだんだ。たとえば、イラクの原油を10年間にわたり安定的に輸入できる契約や、アメリカの大手石油企業との輸入契約、またアメリカ、インドやペルーからの鉄鉱石(てっこうせき)の輸入契約、チリでの鉱山開発(こうざんかいはつ)、マラヤ連邦(今のマレーシア)での鉱石(こうせき)の採掘(さいくつ)など、商社は次々と大きな取引を成功させた。そのおかげで日本は、原料や資源・エネルギーの輸入に困ることなく、順調(じゅんちょう)に経済を発展させることができたんだよ。

貿易以外にもいろいろな機能を活かして日本経済に貢献した

ところで、経済が急成長したこの時期、日本のメーカーは大きく発展したんだ。メーカー自ら海外に進出し、販路を拡げるなどしたことで、もう商社の助けは要(い)らないという意見「商社斜陽論(しょうしゃしゃようろん)」が一部で言われたこともあったんだ。でも実際は反対で、商社の活躍の場はさらに広がったんだよ。石油化学などの大きなプロジェクトでは、いくつもの企業が参加することが多い。そうした各企業のまとめ役として商社が活躍した。このいくつかの企業を互いにつなげるオルガナイザーという役割(やくわり)は、商社が得意(とくい)とする機能(きのう)だ。また、大きなプロジェクトには、とても多くの資金(しきん)が必要だ。こうしたお金を集めることができる金融(きんゆう)の機能を持つことも商社の強みなんだ。豊富(ほうふ)な資金を集めてくる力は、信用にもつながるからね。

高度経済成長によってもたらされた好景気は、国民を豊かにしてくれた。いろいろなモノがたくさん社会に出回り、国民はそれらを手に入れた。「大量消費(たいりょうしょうひ)社会」の時代だね。家庭には冷蔵庫やテレビ、洗濯機などの電気製品が登場し、食生活など暮らしのスタイルも変わった。この時期にインスタントラーメンやインスタントコーヒーが登場してきたけれど、実は、これらの普及(ふきゅう)にも商社が貢献していたんだよ。スーパーマーケットを通してインスタントラーメンを紹介したり、インスタントコーヒーを積極的に輸入したりして世の中に広めていったんだ。

秀才君のためのミニ知識

トリ肉と卵を物価の優等生にしたのは商社

食肉専用のニワトリ、ブロイラー事業を最初に成功させたのは商社でした。そのおかげでトリ肉と卵は安い価格で手に入れることができるようになり、物価の優等生(ゆうとうせい)と呼ばれています。商社は海外の畜産(ちくさん)会社と提携(ていけい)して、良い品種(ひんしゅ)を輸入して育て、卵や肉を生産してスーパーやハム、ソーセージメーカーに販売するというシステムを作り上げました。そのため価格も安定し、レストランなど外食産業から家庭の食卓まで幅広く普及(ふきゅう)させることができました。

日本の優れた大型プラントを商社が世界中に売り込んだ

商社のあゆみをたどっていくと、商社が景気の節目(ふしめ)ごとに、取り扱い商品や仕事の内容、活動の場を変化させてきたことがわかるよ。高度経済成長を続けてきた日本も、1960年半ばになると景気が悪化(あっか)しはじめて、多くの企業が倒産したんだ。商社もその影響を受けた。経営が苦しくなった商社同士が合併(がっぺい)したり、倒産した商社の事業を他の商社が吸収(きゅうしゅう)したりと商社の再編(さいへん)がふたたび起きたんだよ。第一次世界大戦の後の不況期と似ているよね。一方、こうした再編によって、総合力(そうごうりょく)のある巨大な商社が生まれた。

一時的(いちじてき)に不況になった日本だけど、再び景気が良くなりだした。「いざなみ景気」のはじまりだ。この好景気は、1970年ごろまで続いたんだ。日本の経済成長を引っぱってきた重化学工業はますます発展した。それまで鉄鋼(てっこう)などの素材生産が多かったけれど、新たに自動車や合成繊維(ごうせいせんい)などの製品が増えだした。商社も日本の重化学工業を支えるために、引き続き原料や資源・エネルギーの安定供給(あんていきょうきゅう)、輸入に取り組んだ。この頃、商社は開発輸入(かいはつゆにゅう)という事業をはじめた。外国の資源を買いつけて輸入するだけでなく、商社自ら資源開発の事業に参加して資源の確保に努めたんだ。たとえば、ブルネイでは液化天然ガス(LNG)、オーストラリアやブラジルでは鉄鉱石の開発に参加したんだ。開発にかかるお金を商社が負担したり、開発に使う機械を輸入したり、開発した資源を日本に運ぶためのタンカーなど船の手配をしたりと実にさまざまな仕事を行った。

また、この時期は大型プラントの輸出でも、商社が大きく貢献した。プラントは工場や発電所(はつでんしょ)で使う大きな機械の装置(そうち)だ。当時、日本の技術力がめきめきと上がって、外国でも評判(ひょうばん)が良かった。商社は持ち前の情報ネットワークを使って、世界各地の大型プラント建設の情報をすばやくキャッチして受注(じゅちゅう)した。日本企業と外国政府や外国企業との間にはいって交渉(こうしょう)したり、プロジェクトの工事管理やプラントの運転などの業務(ぎょうむ)も手がけたりしたんだよ。フィリピンや韓国、インドなどアジアからイラク、サウジアラビアなど中東、ソ連(今のロシア)まで世界中で多くのプラントを手がけたんだ。

商社は国民の豊かな暮らしの実現を応援した

高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代に続いて、いざなみ景気の時代も人々の暮らしは大きく変わった。中でも食生活がアメリカやヨーロッパのようになったり、レジャーに使う時間が増えたんだ。商社はこうした変化をとらえて、豊かな暮らしを実現しようと新しい事業にチャレンジした。例えば、食肉専用のニワトリ、ブロイラーの大量生産と流通網の確立。そのおかげでファーストフードなど新しい外食産業も生まれたんだよ。また当時、爆発(ばくはつ)的なボウリングブームが起きたんだけど、実は商社が欧米の娯楽ゲームであったボウリングを日本に紹介し、その設備(せつび)や機械の輸入、販売に力を入れたんだ。その他にも、住宅地の開発やマンション建設、ゴルフ場の開発までいろいろな事業に取り組んだ。日本の産業から国民の暮らしまで、さまざまなところで商社の働きがあったんだね。

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商社は日本株式会社の営業部?

日本の高度経済成長を理解するキーワードとして「日本株式会社」という概念(がいねん)があります。そう提唱(ていしょう)したのは、アメリカの経営学者アベグレンです。彼は著書(ちょしょ)の中で、日本政府を本部に、大企業を事業部になぞらえました。奇跡的な経済成長は、政官財(せいかんざい)が一体となって実現したものと述べています。では商社はどのような部署(ぶしょ)になるのでしょう?戦後、日本は貿易国を目指そうと、輸出の振興(しんこう)に力を入れました。商社はその先兵(せんぺい)として、海外で積極的に日本製品の売り込みを行いました。そうした活動から、商社は日本株式会社の営業部、あるいは国際営業部などと呼ばれたものでした。

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詳しい解説 冬の時代に新しい道を探る商社 1970~1989年ごろ

社会のできごと

1971年
ニクソンショック(ドルショック)
アメリカのニクソン大統領がとつぜん、ドルと金の固定比率での交換(こうかん)禁止を発表したこと。世界経済に大きな影響をもたらしたことからドルショックともよばれる。これを機に、為替は固定為替相場制から変動為替相場制に変わった
1972年
日中国交正常化
日本と中華(ちゅうか)人民共和国が国交を結んだ。調印式は北京(ぺきん)で行われ、日本は田中角栄(かくえい)首相、中国は周恩来(しゅうおんらい)首相が署名(しょめい)した。これを記念して2匹のパンダが日本におくられた
1972年
沖縄復帰
5月15日、サンフランシスコ講和条約により、アメリカの下に置かれていた沖縄(琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)および大東諸島)の施政権(しせいけん)が日本にもどされた
1973年
第四次中東戦争
イスラエルと、エジプト、シリアなど中東諸国の間で行われた戦争。アメリカ、ソ連が仲裁(ちゅうさい)して停戦した
1973年
第一次オイルショック
第四次中東戦争により、中東の産油国が原油の生産を減らしたり価格の引き上げを行ったりした。さらに産油国がアメリカなどに石油輸出を禁止したため、世界経済に大きな混乱をもたらした。日本経済も大きな影響を受け、高度経済成長が終わることになる。また、トイレットペーパーの買い占めなどのパニックが起きた
1975年
ベトナム戦争終わる
4月30日、サイゴン陥落(かんらく)によって南ベトナム政府が崩壊(ほうかい)し、南北統一と独立をめぐり1960年に始まった戦争が終わった。東西冷戦(れいせん)を背景(はいけい)に旧ソ連などは北ベトナム、アメリカは南ベトナムを支援した
1975年
先進国首脳(しゅのう)会議(サミット)始まる
オイルショックによる世界経済の混乱に対処(たいしょ)するために始まったもので、第1回は1975年11月にフランスで行われた。参加国はアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・日本の6カ国。その後、年1回、先進国の首脳が集まって、当面の課題についての自由な意見交換を行うことになった
1978年
成田空港開港
5月20日、日本で初めての国際線中心の空港として開港した。旅客運輸はもちろんのこと国際貨物の物流拠点(ぶつりゅうきょてん)として貿易にも大きな役割を果たしてきた
1979年
第二次オイルショック
イラン革命によりイランの石油輸出がとどこおり、供給が大きく減少した。さらに原油価格も大きく上昇し、アメリカやヨーロッパでは第一次以上の混乱を引き起こしたとされる。日本では深夜のテレビ放送の自粛(じしゅく)やガソリンスタンドの休業が起きた
1980年
外国為替外国貿易管理法が法改正
外国との経済取引をきびしく管理するための法律として1949年に施行されたが、日本が経済成長したため全面的に法改正され、取引が原則自由化された。短く「外為(がいため)法」と呼ばれることが多い
1985年
プラザ合意
ニューヨークのプラザホテルで開かれた先進5カ国蔵相(ぞうしょう)会議(G5)で、為替レートなどの合意が発表された。そのため為替はドル高・円安からドル安・円高に変わった
1986年
チェルノブイリ原子力発電所大事故
4月26日、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で発生した史上最大の原子炉(げんしろ)事故。大量の放射性物質が国境を越えて拡散した
1985年
電電公社、専売(せんばい)公社の民営化
民営化が論議(ろんぎ)されていた3公社(日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道)のうち、日本電信電話公社が日本電信電話(NTT)、日本専売公社が日本たばこ産業(JT)として4月1日に民営化された
1987年
国鉄の分割・民営化(JRの誕生(たんじょう)
4月1日、3公社の中で残っていた日本国有鉄道(国鉄)が、6つの地域別の旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などに分割・民営化された
1987年
貿易保険法改正
外国との貿易や海外投資などの取引で、通常の保険では補償(ほしょう)できないケースでも、輸出入業者や仲介業者を守る保険のことで、政府が補てんを引き受ける。従来の輸出保険法から改正され新たに施行された
1987年
世界的株価大暴落(ぼうらく)-ブラックマンデー
10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場で、株価が過去最大の値下がりをした。後にこの日は「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」と呼ばれた。値下がりの原因はアメリカがドル安打開(だかい)のためにドルの金利を引き上げるとの見方と、貿易収支(しゅうし)の赤字幅拡大によるものといわれている
1988年
イラン・イラク戦争が終わる
両国の石油輸出にとって重要な場所であるシャトルアラブ川の河口付近の領有(りょうゆう)問題をきっかけに1980年に始まった戦争。国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦となり、事実上戦争は終わった

世界で起こった2つのショックが日本にも影響

平均年率(ねんりつ)で、約10%の高度経済成長をとげた時代の日本は、IMF(国際通貨基金:こくさいつうかききん)に1954年に、OECD(経済開発協力機構:けいざいかいはつ・きょうりょくきこう)には1964年に加盟していて、先進国として認(みと)められはじめていた。ところが、1970年代に入ると、ニクソンショック(1971年)と2度のオイルショック(1973年、1979年)が起こったんだ。特にオイルショックは、暮らしに大きな影響を与えた。石油の値段が急激に高くなったので、モノが大きく値上がりしたんだ。トイレットペーパーや洗剤の買い占めパニックが起こったり、節電(せつでん)をしなくてはいけなくなった。そんな中、なぜか商社が批判(ひはん)されはじめた。

あらゆるモノの値段が上がり物価が20%以上も上がったのは、商社が石油の買い溜(だ)めや売り惜(お)しみをしたためではないかと疑われたんだ。通商産業省(つうしょうさんぎょうしょう:いまの経済産業省)から、行き過(す)ぎた事業活動はしないようにと言われたり、国会に呼ばれて質問(しつもん)されたりと大変だったんだ。もちろん、商社は犯人ではなかった。でも、そう思われたこと自体を反省(はんせい)して、社会貢献(こうけん)に積極的に取り組んだり、法律はきちんと守るといった自主的な行動のルールを作って社会に公表したんだ。商社は、商社の団体である日本貿易会(にほんぼうえきかい)が作った「総合商社行動基準(そうごうしょうしゃこうどうきじゅん)」というルールにしたがって、それぞれの会社で行動指針(ししん)を作り、法律の遵守(じゅんしゅ)と情報の開示、社会に貢献することを強く誓(ちか)ったんだよ。

大人も知らない商社のヒミツ

正しく活動するためのガイドライン、「商社行動基準」

1970年あたりから、日本では産業の重工業化、高度経済成長による様々な問題が起きていました。特にヘドロや光化学スモッグなどの公害は大きな社会問題になっていました。さらに物価高騰(こうとう)が起き、大企業に対する批判が日増(ひま)しに大きくなっていました。特に商社は買い占めや売り惜しみ、土地や株への過剰(かじょう)な投資が問題視(もんだいし)され、日本中で商社批判が起きました。それは大手商社の代表が国会に参考人として呼ばれたり、公正取引委員会による調査が行われるほど厳(きび)しいものでした。そこで、商社業界は自ら襟(えり)を正す意味で、自発的に行動のモラルとなるガイドラインを考えることにしました。そして、1973年に日本貿易会によって「総合商社行動基準」が策定(さくてい)されました。そこには理念ある経営、社会貢献、遵法(じゅんぽう)の精神などが謳(うた)われています。商社各社はこの基準をもとに、自社の経営行動指針を策定するようになりました。また、「総合商社行動基準」策定以降、商社は積極的に福祉財団の設立や社会に役立つ研究プロジェクトを発足(ほっそく)させるようになりました。「総合商社行動基準」は、1999年に「商社行動基準」と改訂(かいてい)され、2005年には3回目の改訂が行われました。なお、「商社行動基準」は日本貿易会のWEBサイトで見ることができます。

産業が大きく変わり始めた、商社は冬の時代へ

オイルショックを境(さかい)に、日本は低成長時代に入った。商社の業績(ぎょうせき)も落ちてなかなか回復しなかった。原因はオイルショックだけじゃないんだ。この頃には、日本の主要輸出品が、以前の繊維(せんい)、鉄鋼(てっこう)、化学製品から、電気機械、精密(せいみつ)機械、自動車など加工度の高い製品に替(か)わっていた。これらの製品を作るメーカーでは、すでに商社の手助けがなくても、独自(どくじ)で輸出ができるようになっていたんだ。さらに、中小企業へお金を援助する融資(ゆうし)にしても、都市銀行が進出してきたため、商社の必要性が小さくなった。また、オイルショックの原因となった中東(ちゅうとう)の不安定な政治情勢(じょうせい)によって、大きく損失(そんしつ)を出した商社もあったんだ。こうした商社に元気がなくなった時代を、後に「商社冬の時代」と呼んだんだよ。

産業の将来をリードするエレクトロ二クス分野へ進出

世の中の変化に合わせて、再び商社は新しく取り組む道、新しいビジネスを見つけないといけなくなった。もちろんプラント輸出などそれまでの事業は継続していた。機械の輸出なしに日本の経済発展は考えられないからね。メーカーが発展したからといって、商社の活躍の場が全く無くなったわけじゃないんだ。商社は新しく取り扱う商品の発掘を積極的に行った。特に注目したのが、IC(集積回路:しゅうせきかいろ)などのエレクトロニクス分野だ。将来、日本の産業構造(こうぞう)が重化学工業中心から先端(せんたん)技術を活(い)かしたエレクトロ二クス中心に代わると予想して進出(しんしゅつ)していたんだ。それに石油に代わるエネルギーや、なるべくエネルギーを使わない省エネ技術、遺伝子(いでんし)組み換えなどバイオテクノロジーやコンピューターといった新しい分野の成長に期待し進出したんだ。また、この時期に多くの日本企業が海外へ進出したんだけど、商社はそうした企業に積極的に投資をしたんだ。商社は、低成長時代においても、新しい分野へのチャレンジを重ねながら冬の時代からの脱出に取り組んだんだよ。

バブル景気が始まる、商社のビジネスも変化してきた

1980年代半ばになっても、日本を含めて世界経済は低迷(ていめい)していた。商社もまた、冬の時代のままであった。ところが、1985年に「プラザ合意(ごうい)」が発表された。この合意で、それまでドル高に悩んでいたアメリカが、ドル安の政策に変えた。つまり、ドルの価値を下げたんだ。円との関係でいうと、例えば1ドルの価格が100円から90円に下がって、10円安くなるということ。これを円の価格からみると、ドルに対して10円高くなることになるよね。だから円高(えんだか)と言うんだ。円高は、輸出する企業にとって大打撃(だいだげき)だ。販売価格があがってしまい、外国にモノが売れなくなってしまう。そのため、日本は円高による不況(ふきょう)にならないよう、低金利(ていきんり)政策(せいさく)をとった。そのため、銀行預金による低い金利の利益よりも、株や不動産から得られる利益の方が大きくなった。だから、多くのお金が株や不動産に投資(とうし)されるなどの資産運用(しさんうんよう)が盛んになり、お金が社会にたくさん出回って、人びとはたくさん消費した。「バブル景気(けいき)」の始まりだ。そして日本経済は一気に拡大したんだ。この時代、アメリカの一等地の不動産や一流映画会社が日本企業によって買われたんだよ。こうした中、商社も土地やビルなど不動産へ投資したり、株など金融商品の運用によってお金を増やそうとしたんだ。なかには海外ネットワークを活かして、ヨーロッパの市場からも資金を集めていた商社もあったし、利益の大半を金融商品の運用で儲(もう)けた商社もあったほどだ。また、商社もアメリカやヨーロッパへ積極的に進出して、事業や投資を行った。

貿易摩擦の影響で国内需要にあわせ新しい事業へ参入

当時、日本の貿易は黒字が大きく拡大していた。つまり、輸入額より輸出額の方が多かったということだね。そのため、日本は赤字になった相手国から非難(ひなん)され、貿易赤字をなくすための計画や手段を求められた。このように輸出入の不均衡(ふきんこう)によって関係国間で起きたもめごとを貿易摩擦(ぼうえきまさつ)というんだ。バブル景気前からすでにアメリカとの間では、自動車、牛肉、オレンジなどの品目(ひんもく)で貿易摩擦が起こっていた。アメリカは、日本との貿易で大幅な赤字だったんだ。このため、日本はアメリカへの輸出を拡大させるというわけにはいかなくなった。ちょうどその頃、日本国内の消費、国内需要(じゅよう)が拡大していたこともあって、内需(ないじゅ)向けの産業が伸びていた。商社はそうした動きに合わせて、新しい分野に参入(さんにゅう)していった。特に目立ったのが、情報通信(じょうほうつうしん)分野だ。それまでのきびしい規制(きせい)が緩(ゆる)められて、通信市場が自由化しビジネスチャンスが拡がったからだ。国際通信や衛星(えいせい)通信、移動体(いどうたい)通信といった事業に積極的に取り組んだ。また、この時期は高級外車や海外の高級ファッションブランドが注目されて多くの人々が欲しがった。商社はこうした海外の高級品の輸入、販売も手がけたんだよ。この時代、日本中が好景気(こうけいき)にわいたこともあって、商社の業績(ぎょうせき)も過去最高となった。こうして、商社は冬の時代からは抜け出たと見られていたんだ。

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