商社って聞いたことありますか。
日本に必要なモノを輸入(ゆにゅう)し、外国が必要とするモノを輸出(ゆしゅつ)することを貿易(ぼうえき)といいますが、商社の主な仕事のひとつがこの貿易取引です。商社は世界のたくさんの国の会社とパートナーを組んで、世界中でさまざまな商品の貿易取引を行っています。また、日本の社会や産業に欠かせない石油・天然ガス・石炭・鉄鉱石(てっこうせき)などの資源(しげん)を海外で確保(かくほ)するために投資(とうし)したり、コンビニ、スーパーなどの経営(けいえい)、医療(いりょう)や介護(かいご)を支援(しえん)する事業も行っています。さらに、外国で発電所や水プラント、空港、港湾(こうわん)、鉄道などを建設(けんせつ)して、国づくりへの協力も行っています。
このように、日本だけでなくたくさんの国々の豊(ゆた)かな社会づくりのお手伝いをしている商社。そんな商社が誕生(たんじょう)したのは、今からさかのぼることおよそ150年前の徳川幕府(とくがわばくふ)の末期、幕末とよばれるころ。あの有名な坂本龍馬(さかもとりゅうま)がつくった「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が商社のルーツといわれています。
この亀山社中が作られた時代は、どのような時代だったのでしょうか。龍馬はどのような思いで、この亀山社中をつくり、そしてどのような仕事をしていたのでしょうか。商馬くんと妹のお商ちゃんといっしょに、商社のルーツを見に行ってみましょう。
時は幕末の1853年、神奈川県(かながわけん)の浦賀沖(うらがおき)に黒い巨大(きょだい)な軍艦(ぐんかん)が現(あらわ)れました。これまでに日本人がみた事もない大きな蒸気船(じょうきせん)です。アメリカのペリー提督が、当時世界最大級の最新鋭(さいしんえい)軍艦4せきを率(ひき)いてやってきて、日本に開国を迫(せま)ったのです。
当時、幕府は、欧米(おうべい)との交流は、長崎(ながさき)の出島でオランダ人だけに限(かぎ)っていました。日本人の海外への渡航(とこう)や大型船の建造(けんぞう)も禁止していました。しかし、この10数年前、隣国(りんこく)の中国・清国がイギリスとのアヘン戦争で敗れていたことを知っていた幕府は、「巨大な軍事力をもつ欧米列強の要求を断(こと)わると、戦争になって日本が占領(せんりょう)されてしまう」と、1854年に和親条約(わしんじょうやく)を、1858年には修好通商条約(しゅうこうつうしょうじょうやく)をアメリカと締結(ていけつ)して、200年以上続いた鎖国体制(さこくたいせい)が終わりました。
この黒船が来航した年、坂本龍馬は土佐藩(とさはん=現在の高知県)の武士(ぶし)として江戸湾(えどわん)の海岸防備(かいがんぼうび)の任(にん)についていました。その圧倒的(あっとうてき)な姿(すがた)の黒船を見た龍馬は、「こんな軍艦をもつ外国とどうやって戦うのか」とたいへん驚(おどろ)いたそうです。
脱藩した坂本龍馬は、江戸に向かいます。そこで、長崎海軍伝習所で学び、アメリカに行ったことがあり、海外のことや海軍の知識が豊富(ほうふ)な幕府官僚(ばくふかんりょう)の勝海舟(かつかいしゅう)に会います。勝が説く、日本の国家論(こっかろん)や海軍の創設(そうせつ)、そして外国との貿易によってその資金(しきん)を稼(かせ)ぐ必要があるとの話にひどく感心し、龍馬は勝に弟子入りします。勝の下、外国に負けない日本海軍を作るために、龍馬は神戸海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)と勝の私塾(しじゅく)・神戸海軍塾(こうべかいぐんじゅく)を作るための資金集めにかけまわります。前福井藩主(ぜんふくいはんしゅ)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)をはじめ、とても身分の高い人たちにお願いにあがり、みごと設立のための資金援助を受けることに成功しました。
1863年9月に神戸海軍塾が、翌年(よくねん)2月には神戸海軍操練所が創設され、龍馬は仲間たちとともに、航海術(こうかいじゅつ)など海軍技術(かいぐんぎじゅつ)や外国語、勝の海軍構想(かいぐんこうそう)について学んだといいます。
禁門の変では、外国を攻撃(こうげき)して払(はら)いのけようと主張(しゅちょう)する長州藩が幕府と戦いましたが、この時、龍馬は、外国から不平等な取引を強いられている時に、日本人同士が争い、血を流していて、外国と対等の関係が築(きず)けるものかと「日本を今一度洗濯(せんたく)いたし申し候」と意を決するのでした。
幕府に失望した龍馬たちは、新たに動き出すことになります。長崎の亀山で商社の始まりと言われる貿易商社「亀山社中」を結成したのです。
亀山社中には、海軍塾からの頼(たの)もしい仲間で外国商人との商談に長けた英語の得意な近藤長次郎(こんどうちょうじろう)や経理(けいり)・貿易の実務(じつむ)に長けた陸奥陽之助(むつようのすけ=のちの外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ))など頼(たの)もしい仲間がたくさんいました。
長﨑は、鎖国をしていた時代にも、唯一(ゆいいつ)オランダに向けて開かれた「出島」のあった町で、良い港があり、外国貿易商人がたくさん集まっていて、貿易商社を設立するにはまさに適(てき)した町でした。
龍馬は、長崎でイギリスの貿易商人・トーマス・ブレイク・グラバーと出会います。グラバーは、開港と同時に長崎に来て、外国との貿易に大きな力を持っていました。龍馬はグラバーから商売に対する心構(こころがま)えなどを学び、大きな影響(えいきょう)を受けたそうです。
長州藩は、1864年8月の禁門の変と同じ月におきたイギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強艦隊(れっきょうかんたい)との下関戦争で壊滅的(かいめつてき)な損害(そんがい)を受けていました。一方、薩摩藩は兵糧米(ひょうろうまい)が不足して困(こま)っていました。そこで、龍馬は、二つの藩が必要としていたモノをもって仲を取り持とうと試みたのです。
長崎で友好関係を築いたグラバーから、薩摩藩の名義で長州藩が必要とした西欧(せいおう)の最新式小銃(さいしんしきしょうじゅう)七千五百丁と蒸気船一隻(じょうきせんいっせき)を買い受け、長州藩は薩摩藩のために米500俵(ひょう)を用意するという仲介(ちゅうかい)をしました。こうして龍馬は貿易により両藩を連携(れんけい)させて、しこりを取り払い、幕府を倒すための「薩長同盟(さっちょうどうめい)」の仲介を果すことに成功したのです。
幕府と長州の戦いのあと、龍馬は、これ以上日本人同士で血を流してはいけない。武力以外での解決(かいけつ)が無いかと模索(もさく)をつづけていました。1867年、土佐藩の船で京都に向かう途中(とちゅう)、議論(ぎろん)をもって幕府に迫(せま)り、武力によらず幕府自らが朝廷(ちょうてい)に政権(せいけん)を返上することをめざす「船中八策」を考えつきました。
龍馬は、大政奉還の1ヵ月後、京都で刺客(しかく)に襲(おそ)われ帰らぬ人になってしまいます。龍馬の亀山社中は、龍馬の死とともに姿を消すことになりますが、その後、さまざまな貿易商社が生まれ、世界中の国々との貿易へと拡(ひろ)がっていくことになります。龍馬が思い描(えが)いた大きな夢は、多くの若者に引き継(つ)がれ、その意志(いし)は日本を変革(へんかく)させた明治維新(めいじいしん)へとつながり、時代は大きく動いたのです。亀山社中の精神(せいしん)は、綿々(めんめんと)と現代の商社にも受け継がれ、各商社の社是(しゃぜ)や社訓として生き続けています。