貿易の夜明け―商社の誕生 ナレーション

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Chapter1/商社って聞いたことありますか

商社って聞いたことありますか。

日本に必要なモノを輸入(ゆにゅう)し、外国が必要とするモノを輸出(ゆしゅつ)することを貿易(ぼうえき)といいますが、商社の主な仕事のひとつがこの貿易取引です。商社は世界のたくさんの国の会社とパートナーを組んで、世界中でさまざまな商品の貿易取引を行っています。また、日本の社会や産業に欠かせない石油・天然ガス・石炭・鉄鉱石(てっこうせき)などの資源(しげん)を海外で確保(かくほ)するために投資(とうし)したり、コンビニ、スーパーなどの経営(けいえい)、医療(いりょう)や介護(かいご)を支援(しえん)する事業も行っています。さらに、外国で発電所や水プラント、空港、港湾(こうわん)、鉄道などを建設(けんせつ)して、国づくりへの協力も行っています。

このように、日本だけでなくたくさんの国々の豊(ゆた)かな社会づくりのお手伝いをしている商社。そんな商社が誕生(たんじょう)したのは、今からさかのぼることおよそ150年前の徳川幕府(とくがわばくふ)の末期、幕末とよばれるころ。あの有名な坂本龍馬(さかもとりゅうま)がつくった「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が商社のルーツといわれています。

この亀山社中が作られた時代は、どのような時代だったのでしょうか。龍馬はどのような思いで、この亀山社中をつくり、そしてどのような仕事をしていたのでしょうか。商馬くんと妹のお商ちゃんといっしょに、商社のルーツを見に行ってみましょう。

Chapter2/黒船の来航と開国-貿易の夜明け

商馬
「今では、いろんな国々と貿易をしているけど、日本と外国との貿易はいつごろから始まったんだろう?」
お商
「古くは平安時代までさかのぼるようだけど、徳川幕府が政権(せいけん)をにぎっていた江戸時代(えどじだい)、一部の地域(ちいき)を除(のぞ)いて外国との交流を禁止(きんし)し、200年以上も鎖国(さこく)をしていたの。」
商馬
「そうだったね。この鎖国が解(と)かれたのが、あの有名なアメリカのペリー提督(ていとく)が黒船で浦賀(うらが)にやってきた時代だったね。」

時は幕末の1853年、神奈川県(かながわけん)の浦賀沖(うらがおき)に黒い巨大(きょだい)な軍艦(ぐんかん)が現(あらわ)れました。これまでに日本人がみた事もない大きな蒸気船(じょうきせん)です。アメリカのペリー提督が、当時世界最大級の最新鋭(さいしんえい)軍艦4せきを率(ひき)いてやってきて、日本に開国を迫(せま)ったのです。

当時、幕府は、欧米(おうべい)との交流は、長崎(ながさき)の出島でオランダ人だけに限(かぎ)っていました。日本人の海外への渡航(とこう)や大型船の建造(けんぞう)も禁止していました。しかし、この10数年前、隣国(りんこく)の中国・清国がイギリスとのアヘン戦争で敗れていたことを知っていた幕府は、「巨大な軍事力をもつ欧米列強の要求を断(こと)わると、戦争になって日本が占領(せんりょう)されてしまう」と、1854年に和親条約(わしんじょうやく)を、1858年には修好通商条約(しゅうこうつうしょうじょうやく)をアメリカと締結(ていけつ)して、200年以上続いた鎖国体制(さこくたいせい)が終わりました。

商馬
「これらの条約で函館(はこだて)、新潟(にいがた)、横浜(よこはま)、神戸、長崎の5つの港が開かれだれでも外国と自由に取引ができる貿易が始まったんだ。これが「安政の開国(あんせいのかいこく)」とよばれているんだよ。」
お商
「ただ、この条約は、日本が外国から輸入する商品にかける関税(かんぜい)を自らが決められなという、日本の立場はとても弱いものだったそうよ。」

この黒船が来航した年、坂本龍馬は土佐藩(とさはん=現在の高知県)の武士(ぶし)として江戸湾(えどわん)の海岸防備(かいがんぼうび)の任(にん)についていました。その圧倒的(あっとうてき)な姿(すがた)の黒船を見た龍馬は、「こんな軍艦をもつ外国とどうやって戦うのか」とたいへん驚(おどろ)いたそうです。

Chapter3/国を守るために

商馬
「生まれ育った土佐藩のため働こうと剣術修行(けんじゅつしゅぎょう)に励(はげ)んできた龍馬だったけど、このままでは日本が危(あぶ)ない!日本を守るために働きたい!と考えて、1862年、28歳(さい)のときに「脱藩(だっぱん)」したんだ。」
お商
「藩をかってに抜(ぬ)けるということは、とても重い罪(つみ)だったの。それでも日本を守りたいという強い気持ちがあったのね。」

脱藩した坂本龍馬は、江戸に向かいます。そこで、長崎海軍伝習所で学び、アメリカに行ったことがあり、海外のことや海軍の知識が豊富(ほうふ)な幕府官僚(ばくふかんりょう)の勝海舟(かつかいしゅう)に会います。勝が説く、日本の国家論(こっかろん)や海軍の創設(そうせつ)、そして外国との貿易によってその資金(しきん)を稼(かせ)ぐ必要があるとの話にひどく感心し、龍馬は勝に弟子入りします。勝の下、外国に負けない日本海軍を作るために、龍馬は神戸海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)と勝の私塾(しじゅく)・神戸海軍塾(こうべかいぐんじゅく)を作るための資金集めにかけまわります。前福井藩主(ぜんふくいはんしゅ)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)をはじめ、とても身分の高い人たちにお願いにあがり、みごと設立のための資金援助を受けることに成功しました。

商馬
「普通(ふつう)なら龍馬が会うことのできないような身分の高い人に会って、資金援助してもらうというのは、龍馬の交渉力(こうしょうりょく)の高さがわかるよね。商売にもこの交渉力がとても重要なんだ!」
お商
「成果を上げられたのは龍馬さんの力量に加えて、日本を想う心、あつい想いが伝わったのね。商売には熱意も大切よね!」

1863年9月に神戸海軍塾が、翌年(よくねん)2月には神戸海軍操練所が創設され、龍馬は仲間たちとともに、航海術(こうかいじゅつ)など海軍技術(かいぐんぎじゅつ)や外国語、勝の海軍構想(かいぐんこうそう)について学んだといいます。

Chapter4/貿易商社の誕生-商社のはじまり

お商
「ちょうどこの頃(ころ)、外国のいいなりになっている幕府を倒(たお)そうという動きが、日本各地に広がっていったのね。」
商馬
「1864年7月、長州藩は、京に兵を送り武力行使(ぶりょくこうし)を行ったんだ。」
お商
「これを『禁門の変(きんもんのへん)』といって、ここから日本は大きく変わっていくことになるのよ」

禁門の変では、外国を攻撃(こうげき)して払(はら)いのけようと主張(しゅちょう)する長州藩が幕府と戦いましたが、この時、龍馬は、外国から不平等な取引を強いられている時に、日本人同士が争い、血を流していて、外国と対等の関係が築(きず)けるものかと「日本を今一度洗濯(せんたく)いたし申し候」と意を決するのでした。

商馬
「禁門の変で、勝の海軍塾の塾生が長州軍に参加していた疑惑(ぎわく)がかけられ、1864年10月、勝は江戸へ戻(もど)るよう命じられた。その後、海軍操練所と海軍塾は閉鎖(へいさ)されてしまったんだ。」
お商
「それは大変。龍馬さんたちはどうしたのかしら。」

幕府に失望した龍馬たちは、新たに動き出すことになります。長崎の亀山で商社の始まりと言われる貿易商社「亀山社中」を結成したのです。

商馬
「長崎は、以前に勝とともに訪(おとず)れた場所で、いつかここで会社をおこし、世界を相手に貿易をしてお金を稼ごうと誓(ちか)ったところだったそうだよ。」
お商
「亀山社中は、民間の日本人による初の貿易会社だったの。」
商馬
「そうなんだ。だから商社のルーツとよばれているんだ。」
お商
「西洋の最新武器(さいしんぶき)や蒸気船の輸入、緑茶・陶磁器(とうじき)などの国内特産品の輸出、また操船(そうせん)スタッフの訓練や派遣(はけん)で利益(りえき)を得ようとしていたみたいよ。」

亀山社中には、海軍塾からの頼(たの)もしい仲間で外国商人との商談に長けた英語の得意な近藤長次郎(こんどうちょうじろう)や経理(けいり)・貿易の実務(じつむ)に長けた陸奥陽之助(むつようのすけ=のちの外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ))など頼(たの)もしい仲間がたくさんいました。

長﨑は、鎖国をしていた時代にも、唯一(ゆいいつ)オランダに向けて開かれた「出島」のあった町で、良い港があり、外国貿易商人がたくさん集まっていて、貿易商社を設立するにはまさに適(てき)した町でした。

お商
「だけど、その当時の貿易は大変だったんじゃないの?」
商馬
「それは大変だったみたいだよ。外国との商いのやり方の違(ちが)いや、言葉の問題、船が嵐(あらし)にあって積み荷が沈(しず)んでしまった時は、その責任(せきにん)を全部負わないといけなし、事故(じこ)が起きたときに保障(ほしょう)してもらえる保険(ほけん)もなかったからね。」
お商
「商売一つをするのにも命がけだったのね。」

龍馬は、長崎でイギリスの貿易商人・トーマス・ブレイク・グラバーと出会います。グラバーは、開港と同時に長崎に来て、外国との貿易に大きな力を持っていました。龍馬はグラバーから商売に対する心構(こころがま)えなどを学び、大きな影響(えいきょう)を受けたそうです。

Chapter5/日本を変える―龍馬の船中八策(せんちゅうはっさく)

商馬
「龍馬はある日、大きな事を思いついたんだ。長州藩は、禁門の変のとき幕府側についた薩摩藩(さつまはん)と対立していたんだけど、この二つの藩が手を組めば、きっと幕府を倒すことも夢(ゆめ)ではなくなると。」
お商
「そうなの!」
商馬
「長州藩は、幕府との戦いに備(そな)えて武器を購入(こうにゅう)したかったんだけれど、長崎の外国商人たちは、幕府から長州に武器を売ることを禁じられていたんだ。」
お商
「それは大変、長州藩はどうしたの?」
商馬
「龍馬は、幕府を倒すという同じ目的を持ちながら、長州藩と犬猿(けんえん)の仲にあった薩摩藩の名義(めいぎ)で長州の武器を購入できるようにしてあげたんだ。」

長州藩は、1864年8月の禁門の変と同じ月におきたイギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強艦隊(れっきょうかんたい)との下関戦争で壊滅的(かいめつてき)な損害(そんがい)を受けていました。一方、薩摩藩は兵糧米(ひょうろうまい)が不足して困(こま)っていました。そこで、龍馬は、二つの藩が必要としていたモノをもって仲を取り持とうと試みたのです。

長崎で友好関係を築いたグラバーから、薩摩藩の名義で長州藩が必要とした西欧(せいおう)の最新式小銃(さいしんしきしょうじゅう)七千五百丁と蒸気船一隻(じょうきせんいっせき)を買い受け、長州藩は薩摩藩のために米500俵(ひょう)を用意するという仲介(ちゅうかい)をしました。こうして龍馬は貿易により両藩を連携(れんけい)させて、しこりを取り払い、幕府を倒すための「薩長同盟(さっちょうどうめい)」の仲介を果すことに成功したのです。

商馬
「誰も考えないような発想力と実行力。ほしいモノとほしい人を結びつける。まさに商社の商売だよね。」
お商
「龍馬さんが結びつけた薩長同盟があったから、1866年幕府の長州征伐(せいばつ)に薩摩藩は参加しなかったのよね。」
商馬
「そうなんだ。そして龍馬のおかげで、最新式武器を揃(そろ)えていた長州は大群(たいぐん)の幕府軍を払いのけたんだ。」
お商
「この敗戦を境(さかい)に幕府の力は弱くなっていったのよ。」

幕府と長州の戦いのあと、龍馬は、これ以上日本人同士で血を流してはいけない。武力以外での解決(かいけつ)が無いかと模索(もさく)をつづけていました。1867年、土佐藩の船で京都に向かう途中(とちゅう)、議論(ぎろん)をもって幕府に迫(せま)り、武力によらず幕府自らが朝廷(ちょうてい)に政権(せいけん)を返上することをめざす「船中八策」を考えつきました。

商馬
「この船中八策を幕府に認(みと)めさせる事で、戦いがおこらず、日本を変えることができる。そう龍馬は考えたんだ。」
お商
「その後、この船中八策は、土佐藩の大政奉還建白書(たいせいほうかんけんぱくしょ)として幕府に提出(ていしゅつ)され、1867年10月に戦いによらない政権交代、大政奉還が実現(じつげん)したのよね。」
商馬
「ほんとうに龍馬の発想力と国を想う意思はすごいよね。」

Chapter6/豊かな社会の実現をめざす商社

龍馬は、大政奉還の1ヵ月後、京都で刺客(しかく)に襲(おそ)われ帰らぬ人になってしまいます。龍馬の亀山社中は、龍馬の死とともに姿を消すことになりますが、その後、さまざまな貿易商社が生まれ、世界中の国々との貿易へと拡(ひろ)がっていくことになります。龍馬が思い描(えが)いた大きな夢は、多くの若者に引き継(つ)がれ、その意志(いし)は日本を変革(へんかく)させた明治維新(めいじいしん)へとつながり、時代は大きく動いたのです。亀山社中の精神(せいしん)は、綿々(めんめんと)と現代の商社にも受け継がれ、各商社の社是(しゃぜ)や社訓として生き続けています。

お商
「龍馬さんたちの想いは、今の時代にのつながっているのね。」
商馬
「そうだよね。現代では日本だけでなく世界中の国、人々を想い、豊かな社会を実現するために、商社は挑戦(ちょうせん)し続けているんだ。」
お商
「見てくれてありがとう。」
商馬
「商社に興味(きょうみ)を持ってもらえたかな。」
商馬、お商
「また会いましょう!バイバイ!」