社会のできごと
- 1923年
- 関東大震災
- 9月1日のお昼に、関東を襲った(おそった)マグニチュード7.9の大地震による災害。人や建物の被害もきわめて大きかったが、 その混乱のさなかにいろいろな事件が多発(たはつ)した
- 1927年
- 昭和の金融危機
- 第一次世界大戦後の不況(ふきょう)に加えて、関東大震災(しんさい)で出された震災手形が不良債権(さいけん)となり、金融(きんゆう)不安が生じていた。そこに大蔵(おおくら)大臣が実際に破たんしていなかった銀行を、国会で破たんしたと失言したため、不安が一気に表面化し、「取り付け騒(さわ)ぎ」が起きて、銀行が休業に追い込まれた
- 1929年
- ニューヨークから世界恐慌勃発
- 10月24日木曜日、アメリカのウォール街にあるニューヨーク証券(しょうけん)取引所で、株価が大暴落(ぼうらく)した。アメリカではこの日を「暗黒(あんこく)の木曜日」と呼ぶ。多くの銀行が閉鎖(へいさ)され、企業も数多く倒産した。その影響はヨーロッパをはじめ世界に広がり、世界恐慌となった
- 1938年
- 国家総動員法公布
- 戦争に備(そな)えて総力戦体制をとるため、国の経済や暮らしを政府が統制(とうせい)できるよう法律で制定(せいてい)した。第一次近衛(このえ)内閣(ないかく)によって制定、公布され、1946年1月まで続いた
- 1941~1945年
- 太平洋戦争勃発
- 12月8日、日本軍がハワイの真珠湾(しんじゅわん)を攻撃しアメリカと開戦、太平洋戦争が始まった。主に東南アジアなど太平洋地域が戦場になり、日本はアメリカ、イギリス、オランダ、中国と戦った。1945年、8月15日に日本が降伏(こうふく)して戦争は終わった
- 六大都市で米穀配給制度実施
- 戦時(せんじ)下で米不足が心配され、4月から東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸で米が配給(はいきゅう)制になった。配給制とは、物資を配る方法や量を国が決め、行う制度
アジアでは、戦争のせいでヨーロッパからの輸入が途絶(とだ)えてしまったんだ。これをカバーしたのが日本。そのおかげで、繊維(せんい)産業をはじめ重工業(じゅうこうぎょう)も盛んになって貿易量が増えたため、色々な商社が数多く誕生したんだ。ただ、その時代は長くは続かず、そのあとの恐慌(きょうこう)や第二次世界大戦のときはとても苦労したんだよ。
大正後期~昭和初期
産業が近代化して商社ブームがやってきた!
大正時代がわずか14年間だったのは知っているよね。でも、この短い時代は、日本の産業の近代化と商社の発展にとって、とても重要な時期だったんだ。当時、日本の産業は、繊維(せんい)産業を中心とする軽工業が発展していて、さらに鉄鋼(てっこう)産業を中心とする重工業が発展しはじめ、日本の近代化が加速(かそく)していた時期だったんだ。そのため、さまざまな産業や企業が誕生したんだよ。そうなると外国との貿易取引も活発(かっぱつ)になるよね。そこで商社が必要になる。明治の終わりから大正にかけて、商社の仕事や活動の場が一気に広がったことから、多くの新しい商社が誕生したんだ。当然、商社同士の競争(きょうそう)も激しくなっていった。
そして、1914年、第一次世界大戦がはじまった。ヨーロッパの列強(れっきょう)が参戦(さんせん)したために、ヨーロッパからの輸出がストップしてしまった。そこで、また日本商社の仕事や活動の場が大きく広がった。ヨーロッパからの輸入品が入らなくなってしまった国内をはじめアジアに、日本の製品を販売、輸出する絶好の機会が訪れた。また、ヨーロッパ向けに軍需(ぐんじゅ)という戦争に必要な物資の輸出も相当増えた。おかげで日本経済は空前(くうぜん)の好景気となり、商社の取り扱う商品、販売先も大きく広がった。言ってみれば、大正時代は商社ブームの時代だったんだ。
恐慌や戦争で商社もとても苦労した
第一次世界大戦が終わってしばらくすると、ヨーロッパの生産が回復しだしたため、日本からの輸出が落ちはじめた。株価(かぶか)も暴落(ぼうらく)して景気が悪くなり、モノが売れなくなった。多くの企業で事業拡大のための借金(しゃっきん)が膨れ上がっていたので、これが大きな負担となって返済に苦しんだんだ。こうした出来事は、「1920年恐慌(きょうこう)」と呼ばれている。その影響で、第一次大戦の時に誕生した多くの商社が破たんしたんだ。さらに、1923年に関東大震災が起こり、日本経済はどんどんと不況(ふきょう)になっていった。
時代が昭和になってすぐに、日本は再び大きな出来事、試練に襲(おそ)われた。それが、1927年に起こった「昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)」だ。銀行への「預金の取り付け騒(さわ)ぎ」が起きて日本中がパニックになったんだ。国が予算を減らした緊縮(きんしゅく)財政(ざいせい)策による物価の下落(げらく)や、関東大震災で発生した不良債権(さいけん)などから生じた金融不安が主な原因と言われている。
1930年代に入ると徐々(じょじょ)に産業が回復しだして、商社もアジアとの繊維(せんい)貿易に力を入れたり、機械や鉱物(こうぶつ)資源、セメントなどを取り扱(あつ)かったりして、日本の重工業化の発展を支(ささ)えたんだ。一方、この時期、日本は国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)し、徐々に国際的に孤立するようになって行った。そして1941年、太平洋戦争に突入(とつにゅう)した。商社もこの世界大戦に巻き込まれてしまうんだ。戦時体制下において商社の経営環境は大きく変わった。自由な活動は徐々に制限され、日本の「国策」に協力する以外に道はなかったんだ。
詳しい解説 めざましい活躍をする商社 1920~1926年ごろ
専門商社という新しいタイプの商社が数多く生まれた
日本の近代化(きんだいか)が明治時代にはじまったのは覚(おぼ)えているよね。国の政策で、西洋の技術を積極的(せっきょくてき)に輸入して産業を発展させようとしたんだ。日清戦争の後は繊維(せんい)や食品などの軽工業が発展して、日露戦争前後の時期は軍備(ぐんび)に力を入れたこともあって鉄鋼(てっこう)や船舶(せんぱく)など重工業が発展したんだ。
つまり、産業の幅が大きく広がったんだね。商品の種類が多くなり、輸出・輸入の機会が増えた。そのため、明治時代の終わりごろから数多くの商社が誕生したんだ。特に目立ったのが専門商社だ。特定の分野の商品を専門に取り扱う商社のことだ。綿花(めんか)輸入商、輸入洋反物(ようたんもの)商、綿糸(めんし)輸出商、生糸(きいと)輸出商、羊毛(ようもう)輸入商、鉄鋼(てっこう)専門商など実にさまざまな商社が生まれたんだよ。
ところで、この時代の商社の活動は、今とは少し違っていたんだ。当時は、まだ日本の外国人居留地に設置された外国商館(しょうかん)の外国商人から商品を輸入することが多かった。それでも直接海外と貿易をする商社も増えていたんだ。だんだんと近代的な商社ビジネスに近づいていたと言っていいかもしれないね。また、当時の商社事業は、生産者と消費者の間に入って、商品の取引を仲介(ちゅうかい)して仲介手数料をもらうコミッション・ビジネスが中心だった。でも、仲介手数料だけでは利益が大きくない。だから、商社自(みず)らが商品を仕入れて売る買越(かいこし)や、商社自らが注文を受けて販売する売越(うりこし)という新しい商売も行っていたんだ。外国から安くモノを仕入れて、高く売れれば利益(りえき)も大きくなるよね。この方法で商売する商社もあったんだ。
アメリカ、ヨーロッパなど海外に進出しはじめた商社
1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。人類(じんるい)最初の世界大戦だ。イギリス、フランス中心の連合(れんごう)国と、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国(ていこく)中心の同盟(どうめい)国が主にヨーロッパを舞台に戦ったんだ。日本も日英同盟を結んでいたから参戦(さんせん)した。この戦争は日本の経済や商社に大きな影響を与えた。
日清戦争や日露戦争の時と同じように、戦争が起きると軍需(ぐんじゅ)が生まれるよね。この時も戦争中のヨーロッパへの軍需品の輸出が増えたんだ。さらに、ヨーロッパからの輸入が途絶(とだえ)えてしまったアジアに対して、代わって日本が物資供給(きょうきゅう)の中心国となったことから、商社の仕事や活動の場が一気に広がったんだ。また、在日のイギリスやドイツの商社は、ヨーロッパの戦乱(せんらん)から、日本でほとんど活動ができなくなってしまった。つまり、その分、日本商社の仕事が増えたんだ。
こうして、第一次世界大戦の特需から、日本企業は空前(くうぜん)の利益を上げ、日本経済は好況(こうきょう)に沸(わ)いたんだ。特に、造船(ぞうせん)、製鉄(せいてつ)、繊維(せんい)分野が目ざましい発展を遂げた。商社はこのチャンスを積極的に活かし、国内のみならず海外へも事業を拡大させていった。この時期に多くの商社は、中国、台湾、ニューヨーク、ロンドン、シンガポールなどに事務所を開いたんだ。商社で働く人もどんどん増えた。商社ブームといわれるほど商社はかつてないほどに栄えたんだ。
恐慌と震災に日本経済も商社も大きな打撃をうけた
第一次世界大戦が終わった1918年以降も、しばらくはヨーロッパの復興(ふっこう)需要で日本の輸出は引き続き盛(さか)んに行われ、たくさんのお金が事業(じぎょう)に投資(とうし)されていた。商社も、戦中(せんちゅう)に引き続き外国との貿易を拡大していったんだ。
一方、この期間の商社ブームで新しく生まれた商社の中には、無理をして不慣れな取り扱い商品を増やして事業を拡大するところもあった。
ところが、1920年に入ると株価(かぶか)が暴落(ぼうらく)し、経済が混乱(こんらん)しはじめたんだ。さらに、ヨーロッパの生産力が回復(かいふく)しだしたために、日本からのヨーロッパへの輸出は減りはじめた。戦争後も好況(こうきょう)が続くと思って、事業拡大を進め大きな借金(しゃっきん)していた企業は、商品が売れなくなって大きな負債(ふさい)を抱(かか)えることになったんだ。これが、「1920年恐慌(きょうこう)」のはじまりだ。
商社も同様に大きな影響を受けた。多くの商社が経営危機になって破たんしたんだ。破たんしなかった商社でも、大幅なリストラや事業を縮小(しゅくしょう)するなどしてなんとか生き残ったんだ。他の商社と合併(がっぺい)して生き残った商社もあったんだよ。それくらい大変だったんだ。さらに、1923年には、マグネチュード7.9の大正関東地震が起きて、多くの人命が失われ、産業も大打撃(だいだけぎ)を受けた。この関東大震災の被害が原因で破たんした商社もあった。この2つの大きな危機によって、日本経済は非常に苦しい時代に入っていったんだ。
詳しい解説 戦争にほんろうされた商社 1926~1945年ごろ
商社も倒産する大不況が来た
時代は昭和に入っても、日本経済は低迷(ていめい)していた。そのため、経営状態(じょうたい)が悪い銀行が多くなり、。人びとは金融(きんゆう)に不安を感じていたんだよ。そして1927年、「昭和金融恐慌(きょうこう)」が起きた。人びとが自分の預金を引き出すため、銀行に殺到(さっとう)したんだ。いわゆる、「預金の取りつけ騒(さわ)ぎ」だね。お金が回らなくなったため、銀行の休業(きゅうぎょう)や商社の倒産(とうさん)が起きて、経済はとても混乱(こんらん)したんだ。さらに、1929年には、アメリカの金融の中心地、ウォール街のニューヨーク証券取引所で株価(かぶか)が大暴落(だいぼうらく)したことをきっかけに、世界的な規模で金融恐慌が起きて世界恐慌が始まった。世界全体が、大不況(だいふきょう)になってしまったんだよ。
昭和恐慌「内務省に
押し掛ける失業者」(1925)
当然、商社も大きな影響を受けた。商社は、第一次世界大戦の頃から外国同士の貿易を仲介(ちゅうかい)する外国間貿易に力を入れていたんだ。でも、世界大恐慌や激しい国際競争によって活動を縮小(しゅくしょう)せざるを得なくなった。そこで、商社はこのピンチを乗りきるために、日本国内での取引に力を入れたんだ。家庭用の石炭、工場用の扇風機(せんぷうき)やモーターなど電機、それに鶏卵(けいらん)やニワトリのエサなどを取り扱ったんだ。ただ、商社のこうした活動は、地方の農業や工業の発展にも貢献した一方で、昔から事業をしていた中小の問屋(とんや)などの企業にとっては、商売を奪われるかたちになってしまった。そのため、商社に対する反発も一部では起こったんだ。
商社も一緒になって繊維を日本の代表的な産業に育てた
日本経済に大打撃を与えた昭和恐慌(きょうこう)は、やがて落ち着いた。国が紙幣(しへい)を急造(きゅうぞう)して、銀行に届けたんだ。銀行に預けていたお金がおろせなくなると心配していた人々に、お金があることをアピールしたんだね。だから人びとは安心したんだ。
ところで、昭和初期の経済状況は大変だったけれど、日本の綿業(めんぎょう)が栄えた時期でもあったんだ。この綿工業の発展は、綿製品を作る紡績(ぼうせき)メーカーだけでは成しえなかった。商社が原料となる安価で良質な綿花(めんか)や外国の近代的紡績機械を輸入し、さらに生産された綿製品を外国に販売、輸出して貢献(こうけん)したことが大きかった。商社は、中国、アメリカ、インド、ときには中東(ちゅうとう)や南米(なんべい)、アフリカの奥地(おくち)にまで入って行って、綿花を買って輸入したんだ。そして、生産された綿糸布を世界各地に輸出、売りこんだんだ。こうした努力が実(みの)って、綿産業は大きく発展した。また、商社は羊毛を輸入して毛織物(けおりもの)産業の成長にも貢献した。綿のほかにも絹(きぬ)、化学繊維(かがくせんい)などの繊維産業が盛(さか)んになり、この時期の日本の代表的な産業となった。それは、紡績(ぼうせき)会社とともに商社ががんばったからなんだ。
経済も貿易も国が統制し、商社は自由を奪われた
1930年代になると日本の政治・経済に変化が現(あらわ)れはじめた。陸海空軍の軍部(ぐんぶ)が、内政(ないせい)や外交(がいこう)に介入(かいにゅう)してきたんだ。その影響から軍需(ぐんじゅ)優先(ゆうせん)の政策がとられるようになったんだ。そのため、企業は軍需拡大を期待して、輸入が大幅に増えたんだけれど、輸出はあまり伸びず、外国への支払いばかりが多くなってしまった。貿易の収支(しゅうし)は大幅に赤字になってしまったんだ。だから、輸入を減らす制限をしなくてはいけなくなった。そこで国は、貿易活動を規制するために、輸入為替(かわせ)管理令(かんりれい)、輸出入等臨時(りんじ)措置法(そちほう)という命令を出して、貿易統制(とうせい)を行った。輸出入量や輸入品を原料とする製品の消費(しょうひ)などを国が制限できるようにしたんだよ。
この頃、商社は積極的に重化学工業へ投資を行ったり、中国や東南アジアへ進出していた。また、繊維(せんい)、鉄鋼(てっこう)を専門に扱(あつ)う商社も、貿易統制のために自由に活動することができなくなったことから、中国など海外で事業を行うようになった。この時期に最も注目された地域が満州だ。新しい経済圏(けいざいけん)として日本が重視(じゅうし)していた。満州との貿易が増えたおかげで、それまで不振(ふしん)だった鉄鋼、造船(ぞうせん)も回復し、景気が良くなった。さらに、重化学工業も発展しはじめた。そこで商社は、これまでの繊維や石炭・石油に加えて、機械、鉱物(こうぶつ)資源、肥料(ひりょう)も取り扱(あつか)うようになった。これで日本経済はようやく回復したかにみえた。でも戦争の影が、すでに日本を覆(おお)い始めていたんだ。
戦争に突入、商社も国の命令で仕事をさせられた
日本は昭和恐慌(きょうこう)の不況からようやく抜け出し、景気が戻りつつあった。でも国際的には孤立(こりつ)し始めていたんだ。どうしてだと思う?日本が中国など海外へ進出することに、欧米を中心に外国が強く反発(はんぱつ)したからだ。そのため、日本は1933年に国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)した。1937年には、中国との戦争が始まってしまった。国内は戦時体制(せんじたいせい)になって、1938年には「国家総動員(そうどういん)法」が公布(こうふ)された。暮らしも企業の活動も、すべて国のために優先(ゆうせん)されることになったんだ。
そして1939年には、ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス、フランスがドイツに宣戦(せんせん)布告(ふこく)し、第二次世界大戦がはじまった。これを境(さかい)に日本はアメリカ、ヨーロッパとの貿易がほとんどできなくなってしまった。そして、厳しい状況はさらに続いた。アメリカ、イギリス、オランダが対日資産(しさん)を凍結(とうけつ)して、石油の輸出を禁止した。日本は当時石油の8割をアメリカから輸入していたから、その影響は深刻だ。国は貿易についても統制(とうせい)を強め、交易(こうえき)営団(えいだん)という政府代行(だいこう)機関(きかん)を設立(せつりつ)した。この機関が物資(ぶっし)の輸出入価格を決めたり、物資の集荷(しゅうか)や配給(はいきゅう)を行うことになったんだよ。商社は交易営団の指示や命令を受けて活動するしかなかった。もう自由に貿易することができなくなったんだ。
太平洋戦争
1941年、日本は真珠(しんじゅ)湾を攻撃して、アメリカとの戦いに突入(とつにゅう)した。太平洋戦争が始まった。商社は、アメリカやヨーロッパなど対戦(たいせん)国にあった支店や出張所を閉鎖(へいさ)せざるを得なかった。なかには、現地の政府に支店などの資産(しさん)を取り上げられたところもあった。自由に貿易ができなくなった商社、専門商社の多くは、政府や軍に命じられて、中国、満州との取り引きや、東南アジアで活動するしかなかった。満州で農産物を集めて日本などに供給(きょうきゅう)したり、ビルマ(今のミャンマー)やフィリピンに駐在(ちゅうざい)所を置いて、綿花やゴムの栽培を行ったり、山林を開発したりと、商社本来(ほんらい)の仕事ではないことも行った。この状況は戦争が終わるまで続いた。明治時代から日本の近代化とともに歩んできた商社は、戦争にほんろうされ事業を発展させることはできなかったんだ。当時商社で働いた人々は悔しかったかもしれないね。