社会のできごと
- 1945~1952年
- 財閥解散命令
- 太平洋戦争後、日本を占領(せんりょう)したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、経済の民主化を図るため、三井、三菱、住友、安田ほかの財閥(ざいばつ)の解散を命じた。それにより、多くの子会社、孫会社が分社(ぶんしゃ)化、分割(ぶんかつ)化された
- 1950年~
- 朝鮮戦争による特需景気
- 戦争が起こると、アメリカ軍から日本の企業へ、色々な物資の発注(はっちゅう)が増えた。当初は、軍服(ぐんぷく)やテント、鋼管(こうかん)や針金など戦地で使う繊維(せんい)製品や鋼材が多かったが、後に飛行機や戦車の修理も行った。この期間、工業製品の生産が伸びて好景気をもたらした
- 1952年
- 日本がIMF・IBRDに加盟
- 日本は、通貨の安定を担(にな)うIMF(国際通貨基金)、加盟国の復興(ふっこう)援助を担うIBRD(国際復興開発銀行)という2つの国際的な金融機関に加盟した。これにより、日本は国際経済に加わることになった
- 1953年
- 輸出入取引法施行
- 不公正な輸出を防止して、秩序(ちつじょ)ある輸出、輸入のもと、外国との貿易を行うための法律として制定された
- 1954~1973年
- 日本が高度経済成長へ
- 戦後、日本ではエネルギーが石炭から石油へ、産業は軽工業から重化学工業中心となり、輸出も投資も拡大した。さらに所得倍増(ばいぞう)計画など国も積極的な取り組みを行った。そのため、'60年代は年10%以上という驚異(きょうい)的な経済成長率を達成(たっせい)した
- 1960年
- 貿易および為替の自由化計画
- 1955年にGATT(関税、貿易に関する一般協定)に加盟が認められた日本は、貿易を原動力に経済成長をするために、「貿易為替(かわせ)自由化大綱(たいこう)」を策定(さくてい)して貿易自由化を進めた
- 1964年
- 東京オリンピック開催
- アジアで最初に開催(かいさい)されたオリンピックで、94カ国が参加した。敗戦後、日本の復興を世界に印象づけた
- 1970年
- 大阪万国博覧会開催
- 正式名称は日本万国(ばんこく)博覧(はくらん)会で、アジアで初めての国際博覧会となった。「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で開催され、76ヵ国と1政庁(ホンコン)が参加し、のべ183日間で6,400万人あまりの入場者数を記録した
- 1971年
- ニクソンショック(ドルショック)
- アメリカのニクソン大統領が電撃(でんげき)的にドルと金の固定比率(ひりつ)での交換(こうかん)禁止を発表した。世界経済に大きな影響をもたらしたことからドルショックとも呼ばれる。これを機に、為替(かわせ)は固定為替相場制から変動(へんどう)為替相場制に変わった
- 1972年
- 日中国交正常化
- 日本と中華人民共和国が国交(こっこう)を結んだ。調印式は北京(ぺきん)で行われ、日本は田中角栄(かくえい)首相、中国は周恩来(しゅうおんらい)首相が署名(しょめい)をした。これを記念して2匹のパンダが日本に贈(おく)られた
- 1973年
- 第四次中東戦争
- イスラエルと、エジプト、シリアなど中東諸国(しょこく)の間で行われた戦争。アメリカ、ソ連が仲裁(ちゅうさい)して停戦した
- 第一次オイルショック
- 第四次中東戦争により、OPEC(アラブ石油国輸出機構)が原油の生産削減(さくげん)や原油価格の引き上げを行った。さらに産油国がアメリカなどに石油輸出を禁止したため、原油価格が高騰(こうとう)した。日本ではトイレットペーパーの買い占めなどパニックが起きた
- 1979年
- 第二次オイルショック
- イラン革命によりイランの石油輸出が滞(とどこお)り、供給がひっ迫(ぱく)した。さらに原油価格も高騰した。日本では深夜のテレビ放送の自粛(じしゅく)やガソリンスタンドの休業が起きた
- 1980年
- 外国為替外国貿易管理法が法改正
- 元々は外国との経済取引を厳しく管理した法律で1949年に施行された。しかし、日本が経済成長したため全面的に法改正され、取引が原則自由化された。短く「外為(がいため)法」と呼ばれることが多い
- 1985年
- プラザ合意
- ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(先進5カ国蔵相(ぞうしょう)会議)にて、為替レートなどの合意が発表された。そのため為替はドル高・円安からドル安・円高に変わった
- 1987年
- 貿易保険法改正
- 外国との貿易や海外投資などの取り引きで、通常の保険では補償(ほしょう)できないケースでも、輸出入業者や仲介業者を守る保険のことで、政府が補てんを引き受ける。従来の輸出保険法から改正され新たに施行(しこう)された
- 世界的株価大暴落(ブラックマンデー)
- 10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場で、株価が過去最大の暴落(ぼうらく)をした。後にこの日は「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」と呼ばれた。暴落の原因はアメリカがドル安打開(だかい)のためにドルの金利を引き上げるとの観測(かんそく)と、貿易収支(しゅうし)の赤字幅拡大によるものと言われている
- 1988年
- 農産物輸入自由化へ
- 日本はアメリカなどから、農産物の輸入数量制限の撤廃(てっぱい)を要請(ようせい)されて、牛肉とオレンジが輸入自由化されることになった。その後、米も自由化された
第二次大戦が終わって、日本は奇跡的(きせきてき)な経済成長を遂(と)げることになる。…まさに激動の時代だ。産業は次第にエレクトロニクス中心へ。そんな中、商社も産業の発達とともに大きく変化していき、資源エネルギーや原料の輸入にも積極的に取り組んだ。そして優れた日本の製品を世界中に広めて我が国の経済発展のために大きな役割を果たしたんだ。
昭和中期~昭和後期
戦後、経済は奇跡的な成長をとげ、商社の活躍がはじまった
戦後、国は、早く日本を復興(ふっこう)させるために、輸出をどんどんして外貨を稼ぐように産業界に働きかけた。商社も貿易ができるようになり、再び活躍(かつやく)の機会が訪(おとず)れたんだよ。ただ、戦後間もなくは、「財閥(ざいばつ)解体」という命令が出て、財閥系商社が解散(かいさん)させられたり、分割(ぶんかつ)させられた。1950年になると、朝鮮戦争が起こって特需(とくじゅ)で輸出が増えた。1954年ごろには、解散させられた財閥系商社の再統合の法的制約が取り除かれて再統合の動きが見られ、商社もその先頭に立って復興を引っぱったんだ。その後、日本の経済は奇跡的な回復をして、1970年代はじめまで成長が続いたんだ。これが「高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代」だ。おかげで、日本人の暮らしはとても豊かになった。今では当たり前のカラーテレビや、エアコン(当時はクーラー)、冷蔵庫が家庭に登場したのも、このころだったんだよ。商社は、こうしためざましい日本の経済発展に大きく貢献(こうけん)した。原材料(げんざいりょう)や資源(しげん)・エネルギーなどを安定的に供給(きょうきゅう)して重化学(じゅうかがく)工業を支えたんだ。さらに、日本の優れた製品を海外に売り込んだんだよ。それだけじゃない、今では珍しくないインスタントラーメンやインスタントコーヒーを世の中に広めたのも商社だったんだ。
冬の時代からバブル景気へ、大きく変わる商社の姿
1970年代に入ると、日本はドルショック、オイルショックという大きな出来事(できごと)の影響を受けてしまう。急にモノの値段が上がったり、商品が買い占められるなど、ちょっとしたパニックが起きた。これを境(さかい)に、高度成長の時代が終わってしまった。商社もその影響を受けて業績が下がり、物価の値上げの犯人にされたりと大変な思いをしたんだ。それでも時代の変化に合わせて、新しい事業行動ルールを作って、新たなチェレンジをした。1980年代に入ると日本の産業も大きく変わりはじめた。重化学(じゅうかがく)工業中心からエレクトロニクス中心の時代になったんだ。商社も将来を見すえてエレクトロニクス分野へ進出したり、海外進出する日本企業に投資(とうし)したりと事業の幅(はば)を拡げはじめた。やがてバブル景気がやってきて、ふたたび空前(くうぜん)の好景気(こうけいき)をむかえた。商社も他の企業と同じように株や不動産に投資(とうし)をしながら利益(りえき)を上げる一方、高級ブランドの輸入・販売を手がけるなどこれまでに見られなかった新しい事業を展開したんだ。
詳しい解説 発展する日本を支え続けた商社 1945~1970年ごろ
戦後すぐ「財閥解体」命令によって商社の多くは分割・解散
マッカーサーと昭和天皇
1945年、日本はポツダム宣言(せんげん)を受諾(じゅだく)した。長く続いた戦争が終わったんだ。そして、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部:れんごうこくぐん・さいこうしれいかん・そうしれいぶ)が、日本を統治(とうち)した。新たな国づくりが始まったんだ。まずは外貨(がいか)を獲得(かくとく)して日本の経済を立て直すことが重要だよね。そこで貿易を積極的に行うということになった。商社はようやく自分たちの出番が来たと喜んだにちがいないと思うよ。ところが、貿易はGHQによって管理され、政府間(せいふかん)貿易としてはじまった。まだ自由に商社が活動できるわけじゃなかったんだ。1945年に輸出入の政府責任機関として貿易庁(ぼうえきちょう)が創られ、その下に輸出入代行機関(ゆしゅつにゅうだいこうきかん)、貿易業者(ぎょうしゃ)が続いた。その後、政府によって貿易公団(こうだん)が創られて、輸出入代行機関に替わったけれど、戦後しばらく貿易は国が行っていたんだ。
ところで、この時期に商社にとっても、とてもショックな出来事があったのを知っているかな?それは「財閥解体(ざいばつかいたい)」と言うんだ。財閥というのは、分かりやすく言うと家族や同族(どうぞく)で作られた親企業(おやきぎょう)を中心としたグループ企業体(きぎょうたい)のこと。当時、商社のほとんどが財閥の関連(かんれん)企業だったんだ。それで商社は会社を分割(ぶんかつ)しなさいとGHQが命令したんだ。GHQは財閥が経済面から戦争を支援していたと考えていたから、財閥系の会社は商社を含めて分割したり解散させられた。大手商社の中にはなんと200社以上に分割されたところもあったんだよ。
民間貿易が再開、朝鮮戦争の特需で商社も発展した
1949年になると民間輸出(みんかんゆしゅつ)貿易が、翌年には民間輸入(みんかんゆにゅう)貿易が再開された。ようやく商社が自由に貿易ができるようになって、海外にも支店を置けるようになった。さらに、1950年に朝鮮(ちょうせん)戦争が始まった。これが商社に大きなチャンスをもたらしたんだ。戦争による特需(とくじゅ)で、日本は好景気(こうけいき)にわいたんだ。主にアメリカ軍との取り引きによるもので、商社にとっても輸出入拡大(ゆしゅつにゅうかくだい)の追い風となった。特に繊維(せんい)専門の商社は大きく発展した。これらの商社は綿(めん)や絹(きぬ)など「糸へんの漢字」の品物を扱うので、糸へん商社と呼ばれたんだ。糸へん商社が伸びたのは特需のおかげで繊維原料や食料、金属機械の輸入と繊維製品の輸出が増えたからなんだ。ただ、朝鮮戦争が終わると需要(じゅよう)が減って不況(ふきょう)が起こり、多くの企業が倒産(とうさん)した。糸へん商社も、生き残るために商社同士で合併(がっぺい)したり、繊維以外の品目(ひんもく)まで取り扱ったりして専門商社から脱却(だっきゃく)しようとしたんだ。
また、1954年ごろから「財閥解体」で分割された商社が、再び一緒(いっしょ)になる動きも目立ってきていろいろな商社が生まれた。「財閥解体」での命令が緩和(かんわ)されたのが理由だ。その一方、商社同士の競争などから、規模の大きくない、体力のない商社がたくさん倒産(とうさん)した。1954年には、なんと繊維専門商社105社が倒産したんだよ。それでも、こうした大変な時期を乗り越えた商社があり、そして活躍(かつやく)する時代がやってくるんだ。
高度経済成長、商社は資源エネルギー輸入のために世界中で活躍
1950年代も半(なか)ばになると、日本の経済は急成長(きゅうせいちょう)しだした。「高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代」のはじまりだ。急成長を実現(じつげん)したのが、石油化学や造船(ぞうせん)、鉄鋼(てっこう)などの重化学(じゅうかがく)工業の発展(はってん)だ。この頃の日本は、海外から鉄鉱石(てっこうせき)や石炭(せきたん)、原油(げんゆ)などの現料を輸入し、それを加工、製品にして、海外や国内に販売してたんだ。1960年代に入ると、当時の政府は「所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)」を掲(かか)げた。国民が製品などを生産して得た儲(もう)けを10年で2倍にするという計画だ。これがきっかけとなって、製鉄(せいてつ)所やコンビナートが数多く作られ、ますます重工業は発展した。メーカーは、最新の設備(せつび)を取り入れて、技術革新(かくしん)に取り組んだ。たとえば、鉄鋼(てっこう)会社は、新しい高炉(こうろ)を建設し新製品を開発した。ナイロンやプラスチックを作る石油化学、合成(ごうせい)繊維(せんい)産業も大いに発展(はってん)した。石油産業も成長した。
でも、不思議に思わないかい?資源(しげん)エネルギーの少ない日本で、どうやってこんなに重工業が大きく発展したのだろう。実は、商社ががんばったからなんだ。商社は、世界中を駆け回って、原油や鉄鉱石などの原料や資源・エネルギーを安定的に確保、輸入できるように取り組んだんだ。たとえば、イラクの原油を10年間にわたり安定的に輸入できる契約や、アメリカの大手石油企業との輸入契約、またアメリカ、インドやペルーからの鉄鉱石(てっこうせき)の輸入契約、チリでの鉱山開発(こうざんかいはつ)、マラヤ連邦(今のマレーシア)での鉱石(こうせき)の採掘(さいくつ)など、商社は次々と大きな取引を成功させた。そのおかげで日本は、原料や資源・エネルギーの輸入に困ることなく、順調(じゅんちょう)に経済を発展させることができたんだよ。
貿易以外にもいろいろな機能を活かして日本経済に貢献した
ところで、経済が急成長したこの時期、日本のメーカーは大きく発展したんだ。そのため、もう商社の助けは要(い)らないという意見「商社斜陽論(しょうしゃしゃようろん)」が一部で言われたこともあったんだ。でも実際は反対で、商社の活躍の場はさらに広がったんだよ。石油化学などの大きなプロジェクトでは、いくつもの企業が参加することが多い。そうした各企業のまとめ役として商社が活躍した。このいくつかの企業を互いにつなげるオルガナイザーという役割(やくわり)は、商社が得意(とくい)とする機能(きのう)だ。また、大きなプロジェクトには、とても多くの資金(しきん)が必要だ。こうしたお金を集めることができる金融(きんゆう)の機能も商社の強みなんだ。豊富(ほうふ)な資金を集めてくる力は、信用にもつながるからね。
高度経済成長によってもたらされた好景気は、国民を豊かにしてくれた。いろいろなモノがたくさん社会に出回り、国民はそれらを手に入れた。「大量消費(たいりょうしょうひ)社会」の時代だね。家庭には冷蔵庫やテレビ、洗濯機などの電気製品が登場し、食生活など暮らしのスタイルも変わった。この時期にインスタントラーメンやインスタントコーヒーが登場してきたけれど、実は、これらの普及(ふきゅう)にも商社が貢献していたんだよ。スーパーマーケットを通してインスタントラーメンを紹介したり、インスタントコーヒーを積極的に輸入したりして世の中に広めていったんだ。
日本の優れた大型プラントを商社が世界中に売り込んだ
商社のあゆみをたどっていくと、商社が景気の節目(ふしめ)ごとに、取り扱い商品や仕事の内容、活動の場を変化させてきたことがわかるよ。高度経済成長を続けてきた日本も、1960年半ばになると景気が悪化(あっか)しだした。多くの企業が倒産したんだ。商社もその影響を受けた。経営が苦しくなった商社同士が合併(がっぺい)したり、倒産した商社の事業を他の商社が吸収(きゅうしゅう)したりと商社の再編(さいへん)がふたたび起きたんだよ。第一次世界大戦の後の不況期と似ているよね。一方、こうした再編によって、総合力(そうごうりょく)のある巨大な商社が生まれた。
一時的(いちじてき)に不況になった日本だけど、再び景気が良くなりだした。「いざなみ景気」のはじまりだ。この好景気は、1970年ごろまで続いたんだ。日本の経済成長を引っぱってきた重化学工業はますます発展した。それまで鉄鋼(てっこう)などの素材生産が多かったけれど、新たに自動車や合成繊維(ごうせいせんい)などの製品が増えだした。商社も日本の重化学工業を支えるために、引き続き原料や資源・エネルギーの安定供給(あんていきょうきゅう)、輸入に取り組んだ。この頃、商社は開発輸入(かいはつゆにゅう)という事業をはじめた。外国の資源を買いつけて輸入するだけでなく、商社自ら資源開発の事業に参加して資源の確保に努めたんだ。たとえば、ブルネイでは液化天然ガス(LNG)、オーストラリアやブラジルでは鉄鉱石の開発に参加したんだ。開発にかかるお金を商社が負担したり、開発に使う機械を輸入したり、開発した資源を日本に運ぶためのタンカーなど船の手配をしたりと実にさまざまな仕事を行った。
また、この時期は大型プラントの輸出でも、商社が大きく貢献した。プラントは工場や発電所(はつでんしょ)で使う大きな機械の装置(そうち)だ。当時、日本の技術力がめきめきと上がって、外国でも評判(ひょうばん)が良かった。商社は持ち前の情報ネットワークを使って、世界各地の大型プラント建設の情報をすばやくキャッチして受注(じゅちゅう)した。日本企業と外国政府や外国企業との間にはいって交渉(こうしょう)したり、プロジェクトの工事管理やプラントの運転などの業務(ぎょうむ)も手がけたりしたんだよ。フィリピンや韓国、インドなどアジアからイラク、サウジアラビアなど中東、ソ連(今のロシア)まで世界中で多くのプラントを手がけたんだ。
食生活やレジャーなど豊かになった国民の暮らしを応援した
高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)時代に続いて、いざなみ景気の時代も人々の暮らしは大きく変わった。中でも食生活がアメリカやヨーロッパのようになったり、レジャーに使う時間が増えたんだ。商社はこうした変化に応えて、豊かな暮らしを実現しようと新しい事業にチャレンジした。例えば、食肉専用のニワトリ、ブロイラーの生産や流通。その影響でファーストフードなど新しい外食産業も生まれたんだよ。また当時、爆発(ばくはつ)的なボウリングブームが起きたんだけど、実は商社が欧米の娯楽ゲームを日本に紹介し、ボウリングの設備(せつび)や機械の輸入、販売に力を入れたんだ。その他にも、住宅地の開発やマンション建設、ゴルフ場の開発までいろいろな事業に手を広げた。日本の産業から国民の暮らしまで、さまざまなところで商社の働きがあったんだね。
詳しい解説 冬の時代に新しい道を探る商社 1970~1989年ごろ
世界で起こった2つのショックが日本にも影響
平均年率(ねんりつ)で、約10%の経済成長をとげた高度経済成長時代の日本は、IMF(国際通貨基金:こくさいつうかききん)に1954年に、OECD(経済開発協力機構:けいざいかいはつ・きょうりょくきこう)には1964年にすでに加盟していて、先進国として認(みと)められはじめていた。ところが、1970年代に入ると、ニクソンショック(1971年)とオイルショック(1973年、1979年)が起こったんだ。特にオイルショックは、暮らしに大きな影響を与えた。石油の値段が急激に高くなったので、モノが大きく値上がりしたんだ。トイレットペーパーや洗剤の買い占めパニックが起こったり、節電(せつでん)をしなくてはいけなくなった。そんな中、なぜか商社が批判(ひはん)されはじめた。
物価が20%以上も上がったのは、商社が石油の買い溜(だ)めや売り惜(お)しみをしたためではないかと疑われたんだ。通商産業省(つうしょうさんぎょうしょう:いまの経済産業省)から、行き過(す)ぎた事業活動はしないようにと言われたり、国会の衆議院(しゅうぎん)に呼ばれて質問(しつもん)されたりと大変だったんだ。もちろん、商社が犯人ではなかった。でも、そう思われたこと自体を反省(はんせい)して、社会貢献(こうけん)に積極的に取り組んだり、法律はきちんと守るといった自主的な行動のルールを作って社会に公表したんだ。商社は、商社の団体である日本貿易会(にほんぼうえきかい)が作った「総合商社行動基準(そうごうしょうしゃこうどうきじゅん)」というルールにしたがって、それぞれの会社で行動指針(ししん)を作り、法律の遵守(じゅんしゅ)と情報の開示、社会に貢献することを強く誓(ちか)ったんだよ。
産業が大きく変わり始めた、商社は冬の時代へ
オイルショックを境(さかい)に、日本は低成長時代に入った。商社の業績(ぎょうせき)も落ちてなかなか回復しなかった。原因はオイルショックだけじゃないんだ。この頃には、日本の主要輸出品が、以前の繊維(せんい)、鉄鋼(てっこう)、化学製品から、電気機械、精密(せいみつ)機械、自動車など加工度の高い製品に替(か)わっていた。これらの製品を作るメーカーでは、すでに商社の手助けがなくても、独自(どくじ)で輸出ができるようになっていたんだ。さらに、中小企業へお金を援助する融資(ゆうし)にしても、都市銀行が進出してきたため、商社の必要性が小さくなった。また、オイルショックの原因となった中東(ちゅうとう)の不安定な政治情勢(じょうせい)によって、大きく損失(そんしつ)を出した商社もあったんだ。こうした商社に元気がなくなった時代を、後に「商社冬の時代」と呼んだんだよ。
産業の将来をリードするエレクトロ二クス分野へ進出
世の中の変化に合わせて、商社は新しく取り組む道を見つけないといけなくなった。もちろんプラント輸出などそれまでの事業は継続していた。機械の輸出なしに日本の経済発展は考えられないからね。メーカーが発展したからといって商社の活躍の場が無くなるわけじゃないんだ。それでも、商社は新しく取り扱う商品の発見を積極的に行った。特に注目したのが、IC(集積回路:しゅうせきかいろ)などのエレクトロニクス分野だ。将来、日本の産業構造(こうぞう)が重化学工業中心から先端(せんたん)技術を活(い)かしたエレクトロ二クス中心に代わると予想して進出していたんだ。石油に代わるエネルギーやなるべくエネルギーを使わない省エネ技術、遺伝子(いでんし)組み換えなどバイオテクノロジーやコンピューターといった新しい分野の成長に期待し進出したんだ。また、この時期に多くの日本企業が海外へ進出(しんしゅつ)したんだけど、商社はそうした企業に積極的に投資をしたんだ。商社は、低成長時代においても、新しい分野へのチャレンジを重ねながら冬の時代からの脱出に取り組んだんだよ。
バブル景気が始まる、商社のビジネスも変化してきた
1980年代半ばになっても、日本を含めて世界経済は低迷(ていめい)していた。商社もまた、冬の時代のままであった。ところが、1985年に「プラザ合意(ごうい)」が発表された。この合意で、それまでドル高に悩んでいたアメリカが、ドル安の政策に変えた。つまり、ドルの価値を下げたんだ。円との関係でいうと、例えば1ドルの価格が100円から90円に下がって、10円安くなるということ。これを円の価格からみると、ドルに対して10円高くなるよね。だから円高(えんだか)と言うんだ。円高は、輸出に頼(たよ)る企業にとって大打撃(だいだげき)だ。販売価格があがってしまい、外国にモノが売れなくなってしまう。そのため、日本は円高による不況(ふきょう)にならないよう、低金利(ていきんり)政策(せいさく)をとった。そのため、銀行預金による低い金利の利益よりも、株や不動産から得られる利益の方が大きくなった。だから、多くのお金が株や不動産に投資(とうし)されるなどの資産運用(しさんうんよう)が盛んになり、お金が社会にたくさん回って、人びとはたくさん消費した。「バブル景気(けいき)」の始まりだ。日本経済は一気に拡大したんだ。この時代、アメリカの一等地の不動産や一流映画会社が日本企業によって買われたんだよ。こうした中、商社も土地やビルなど不動産へ投資したり、株など金融商品の運用によってお金を増やそうとしたんだ。なかには海外ネットワークを活かして、ヨーロッパの市場からも資金を集めていた商社もあったし、利益の大半を金融商品の運用で儲(もう)けた商社もあったほどだ。また、商社もアメリカやヨーロッパへ積極的に進出して、事業や投資を行った。
貿易摩擦の影響で内需にあわせ新しい事業へ参入
当時、日本の貿易は黒字が大きく拡大していた。そのため貿易摩擦(まさつ)が起こって、日本は赤字になった相手国から非難(ひなん)されていた。すでにバブル景気前から自動車、牛肉、オレンジなどの品目(ひんもく)でアメリカとの間で摩擦が起こっていた。アメリカは、日本との貿易で大幅な赤字だったんだ。この貿易摩擦は、経済問題だけにとどまらず政治問題になってしまって、日本は輸出を拡大させるというわけにはいかなくなった。その代わりに、日本国内の消費が拡大していたこともあって、国内での需要(じゅよう)、つまり内需(ないじゅ)向けの産業が伸びていた。商社もそうした動きに合わせて、新しい分野に参入(さんにゅう)した。特に目立ったのが、情報通信(じょうほうつうしん)分野だ。きびしい規制(きせい)が緩(ゆる)められて、通信市場が自由化しチャンスが拡がったからだ。国際通信や衛星(えいせい)通信、移動体(いどうたい)通信といった事業を積極的に展開したんだよ。また、この時期は高級外車や海外のファッションブランドが注目されて多くの人々が欲しがった。商社はこうした海外の高級品の輸入、販売も手がけたんだよ。日本中が好景気(こうけいき)にわいたこともあって、商社の業績(ぎょうせき)も過去最高となった。こうして、商社は冬の時代からもはや抜け出たと見られていたんだ。